ブルーに染まった靴底が落伍者の合図だった。正しく言えば、文系大学生など九割九分が落伍者だが、ブルーに染まった靴底は落伍者のなかでもある厳格なジョークと偏向した教養に身を置く文芸サークルの一派の証で、ボンクラだとかクズとか呼ばれる烏合の衆たる純文学・芸術研究創作同好会、略して文芸部の新たな活動の成果だった。
 屈強とは言い難い、肉体的あるいは精神的にヒョロヒョロの男子達はベニヤ板を真っ青に塗り込んだ。作業者共はどんなに注意を払っても靴が青く汚れるのだった。外装は黒で、ネオン管っぽいペイントをして、内壁は真っ青にしよう。照明はブルーとピンクを予定。秋の大学祭のための仮設店舗の準備作業だった。
「なるべくセクシーに」そんな無茶振りを受けながら、私は看板の下絵に着手していた。ちょっとばかり絵を描けると、すぐにこんな難関な雑務を押し付けられる。場末のスナック・バー・ネオン管・バブリーなサインをググってみるも、案はまとまらない。図案が完成したとしても、限られた色合いのペンキを使ってのペイント工程が待ち構えている。絵を描けない人間に絵を描く苦労を訴えるのはかなり難しい。
 この度の文芸部の学祭での出し物は模擬店だ。

『文壇オカマバー・土瀝青』。

 文字通りである。学祭の三日間、我々はオカマバーを出店する。

 模擬店を置くことは完全にサークル毎の任意である。例年純文学・芸術研究創作同好会、略して文芸部では、仕込みのいらないカクテル類の提供を行なっていた。店名は毎年異なっていて、今年はどうしようかと集ったある日の部会、全く関係のない文脈から話題が以下の通りに発展した。

「黒岩涙香(くろいわ・るいか)ってラノベヒロイン居そう」

 正しくは涙香(るいこう)であるが、誰かのハートに火をつけたらしい。

「俺は泉鏡花たんを推すぜ」
「高野聖子(たかの・せいこ)」
「涙香様と鏡花たんのダブルヒロイン」

 連想の理由を後になって思い出すのは困難だ。船頭多くして舟山を登るとはこのことで、気付けば案はまとまっていた。まとまった案のまとまりのなさに皆が気付いたが審査は滞りなく通過した。

・文芸部だから文壇バーをやろう ……@
・泉鏡花、黒岩涙香の名前はややこしい ……A
・@Aより、∴オカマバー
・どうでもいいが土瀝青(アスファルト)って漢字はグッと来る。たしか『舞姫』で見たな。舞姫ニトロプラスで翻案しないかな等々

 結果がこの様だった。

 ブルーの内壁を塗り込める作業者の近辺には問答無用で生乾きのペンキが巻き散らかされ、踏み入った愚か者の身体にはどこかに青が付着した。私は離れた日陰に陣取り、ベニヤ板に鉛筆描きでネオンサインの作成に奮闘していた。全て「瀝」の字が悪い。一度誤ってさんずいに歴で描いてしまったが、林の部分をよく見れば禾禾である。罠か。
 日差しにぬるまったボトル茶の最後の一口を飲み干した。晩夏の最後の逆襲のように、今日の日差しは焼け付く眩しさだった。
 身をかがめて作業を続けていると青い靴底の人影が通り過ぎた。電話を片手に会話が弾む。浮き足立った様子で辺りを行きつ戻りつしているのは森澤君だった。見上げてみると電話越しに抱いた好意が表情筋に滲み出ていた。浮いた心地を抑えきれない様子で辺りをうろつき、電話が切れてもなおうろうろと街路樹の周りを徘徊を続け、やがてようやく落ち着いて、

「植草さんお疲れさま」

と作業中の私を発見する。

「森澤君すっごいニヤけてたね」
「え、うっそ顔に出てた?」
「出まくってた出まくってた」

 公募の選考通ったの? 訊くと、「いや、それはまだ、発表今月末だから」とのこと。「まあ一次は通るでしょう」と彼は軽い気持ちで構えていた。

「森澤君は店番すんの?」

 店番とはすなわち女装を指した。

「そっれさあ、おれがいないときに決められてたんだよねえ、おれは賛成票入れてないってのに」

 さて、オカマバーであるが、ほんの数日の悪夢のためにお水のドレスを買うなど愚の骨頂ということで、イメクラというかコスパブ化するそうである。つまりは廉価なコスプレ衣装で済まそう、それならメンズサイズも多々あるだろうし、欲しい人もいるだろう(?)……という魂胆で、「嬢」のうち誰が何を着るかというのが当面の話題になっていた。

「源氏名も決めないといけないし」
「森澤君ノリノリじゃん」
「倒れかかったものにはまあ、乗っかっておかなきゃ。下手に抵抗してもつまんないから、じゃあ、楽しもうよってね」

 にしても暑くない? 植草さん大丈夫? スプライト好き?
 と言って、ふたり購買でスプライトを買いに作業を中断した。

 店舗は学祭前々日に一気に組み立てるというので、暫くは色を塗った壁面がサークル棟に放置されていた。セクシーにと注文された看板は、暇を見つけては長々と時間をかけて手を入れていた。こういうものはさらっと一発書きで気の抜けた風合いの方が上手く収まることが往々にしてあるけれど、私に器量や才能はなかった。ネオン管をググりながら、ペンキの少ない色数で光の滲みを描こうと努める。安い筆先がバキバキに痛む。文系大学芸術学部の端くれとして意地があった。美大やら専門学校やらに入れなかったことへの意地だった。
 季節は過ごしやすい気候へだんだん移ろい、私は屋外でペンキ仕事に従事していた。義務ではなく自己満足的な愛着で。
 時折通りすがる森澤君にオカマバーの進展を尋ねる。私は外装に従事する代わりに、面倒な仕込みや手続きや会計事務から解放されている。

「源氏名は決まった?」
「いや、当日まで秘密」
「衣装は」
「セーラー服かナースか、ドレスも一着あるらしいよ」
「それ誰の仕込みなんですか?」
「おれじゃない、当日のくじ引きで、学祭三日間それで過ごせと」
「森澤君やっぱノリノリじゃん」
「ちげえよ、でも、割り切って乗り込んだ方が後腐れないだろ、何やったって笑われるんだったら尚更ね」

 私は独りが好きな方ではあるが、作っているものを見守って貰える分には少し嬉しい。

「絵描ける人はすげえなあって思う。おれ、芸術批評系に行っても良かったかもなって」
「森澤君も作る人でしょ」
「書く方のね」

 写真や実物を見ながら絵を描いても、なぜだかいつまで経っても絵がお手本通りに上手く描けないことがまま起こる。モチーフを穴が空くほど見つめ続けて、その陰影や質感をこの世で今私が一番熟知しているのだ……と確信しそうになるほど観察しても、絵が、現実に近付かない。
 重ねたペンキが乾いて板の上で盛り上がり、半立体になり始めた。

「植草さん絵ぇ上手いよなあ」

 通りすがりざまに森澤君が気に掛けていくのも、ありがたい半分、疑心がよぎる。

 ネオン看板に取り掛かりつつ、文芸部は内装のディティールに着手した。クリスマス風のカラフルな電飾にピンポン球を被せて、とてもファンシーな照明を作った。店内で部誌の残部を取り扱うことにした。上辺のオカマで忘れがちだが、そもそもここは文壇バーである。

 さて、部員は毎年恒例のオリジナルカクテルを考えなければならない。

「得体の知れないもの入れるの禁止。誰だ、この『ドリンクバー』っていうの提案したやつ」
「ノンアルコールですよ。とりあえず在庫をテキトーに混ぜるだけなんで、覚えなくていいし経済的だし」
「ダメダメ」
「アブサンは?」
「個人的に買え」
「『変身』!」
「文壇バーっぽくなったけどそれなに、リンゴまるごと刺さってんの?」
「いや腐ったチーズ等」
「ザムザ飯かよ!」
「なんか、作家の名前とか、エピソードとかちなめないの」
「部誌に載せた作品名か自分の好きな小説でカクテル作ったら? 書いた人が材料考えてさ」

 という思いつきが半分採決された。なぜ半分かと言うと、『変身』などのジャンク案も結局審議を通過したからである。さすがに腐ったチーズじゃなく、レッドブル+リンゴジュースに差し替えられたが。
 オカマ達は化粧の方法を思案していた。
「ま、女子部員の誰かがやってくれるでしょう」あるいは「思いっきりケバいウケ狙い」というところがおおよその魂胆らしい。

「ドラァグクイーンを参考にさあ」
「そんなにケバい設定なんだ」
「思いっきりケバい方が安心するんじゃないかな」と森澤君。
「思いっきりケバい方が、誰が仕掛け人か一目瞭然だろ。どれぐらいマジでどれぐらいウソか。ウソはウソだと分かってた方が安心して楽しめる」
「そんなケバいメイクのセーラー服の子いますか」
「いないだろ。つまりフィクション、つまりジョークだってこと。ギャグなのかマジなのか判別つかない、微妙なグレーゾーンに陥る方があとあと対処に困るんだから」
「精巧な方が本物っぽいって、私は思ってましたけど。テーマパークのスタッフみたいに、細かいディティールを徹底していた方が雰囲気を強固に裏付けるんじゃないの?」
「その精巧さは現実じゃなく、仮想を参照している。魔法世界や宇宙や映画のなかをね。来る人は皆仮想世界の元ネタを知っているからそれがリアルだと思うわけだ。でもおれたちオカマにはパロディの元がない。なら、ステレオタイプのケバケバしさを参照するしかない。現実に生きる精巧な本当のニューハーフたちは、現実に似過ぎてウソがウソだと伝わらないのさ。あのひとたちは本当に女性だからね」
「やっぱり森澤君ノリノリじゃん」
「頑張る為の捌け口があると、ひとは頑張れるのかもねえ」

 しばらくは看板の製作を「捌け口」に利用していたが、あるときとうとう画力の壁に突き当たった。これ以上描いても描写が現実に似そうにないと悟ってしまった。悟ったならそれでおしまいだ。
 悶々としながら日々を過ごし、チラシの準備といった細かい用事を済ませた。
 看板に対しては実はとっくにクライアントの及第点は超えていた。文芸部にしてみれば、たった三日間のオカマバーなんていうものは酒で流し込むべきジャンクなジョークである。誰もマジじゃない。ましてや、看板など二の次である。
 祭の数日前に森澤君が立て看板を持ち込んだ。膝ぐらいの高さの白い板がAの字に2枚組まれて自立している。端正な青い文字でオープン時間や諸注意がレタリングされ、隅には青い口紅の女性が優美に足を組んでいるが、オカマバーの看板なのでここに描かれているのは多分男だ。

「ダメ元で頼んだら結構しっかりしたの作ってくれた」と森澤君。「ちゃんと自立するし、ここ蝶番になってて折り畳めるし、ストッパー付いてるから固定できるんだよ」

 簡単な描き味の割に構造は丈夫だし、ペンキのムラも年季の入ったテクスチャのようで、お洒落だった。

「凄いね、これ」。悔しいけど。
「あ、でも木材買ってきて運んだのおれだし」
「何を偉そうに」
「え、でもホームセンターからさ、運んで来たんだよ、おれ免許ないから手で。もう筋肉痛も筋肉痛で」
「貧弱だなー」
「あら、そう?」

 漏れた女言葉に驚いた。したり顔で、彼は立ち去る。“誰が”看板を作ったのか語られることはなかった。あるいはそれが誰だか知っていれば、お話はここでおしまいだった。



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