「やっぱ、いいね、レインボーブリッジは夜景だな」

 とてもベタなドライブコースに、私達はひとしきり笑う。缶コーヒーはぎりぎりで人肌程度にホットだった。ライトアップされた大きな吊り橋と街に煌めく夜の灯り、それら光を反射してゆらめく暗黒の水面。私の好きな光景だった。そして彼はもっと偏執的にそれらを愛しているのだと、知っていた。

 出会いはベタだった。本屋で同じ一冊を手に取って、指先が触れて、言葉を交わした。趣味がまるで一緒なのを彼はとても喜んだ。ベタにおしゃれな喫茶店、ベタに買い物とプレゼント、ベタに映画、ベタに夜景ドライブ、行き先はレインボーブリッジ。彼の心象風景に最も近い現実を、そうとは知らずに彼は導く。私は胸踊らせていた。私は私の表情以上に想いを募らせていたのだった。

「仕事は何?」とは訊かなかった。なぜ訊かないのかと、あるとき彼の方から尋ねた。

「私がつまらない人間だから。だって、訊いたからには、私も訊かれなきゃいけない。訊かれたくないことは訊かないの」

「言えないような裏稼業?」身を乗り出して彼が悪戯っぽく笑む。

「ううん。つまらないだけ。大切なことらしいけど実感が沸いたことはない。成果が手元に残らないから」

 それから「訊いたからには青野さんの番だよ」と切り出すまでは、心の中での1小節を要した。

「自由業ってやつかなあ」
「働いてるの?」
「働いてますよ!」
「どんな感じで?」
「絶妙なバランスでの人助け、抽象的に言えばきっとそんな感じ。俺のいいところは、人助けのなかに自分も頭数に入れてるんだよ。でもおよそ雑務だな」
「何それ」

 私は無邪気な女の顔で笑う。全ての問いの答えは予め知らされていた。

「私も人助けの対象に入るのかしら」
「かしら、って、詩苑さん、小説みたいな言い方をするんだね」
「私は好きですよ、『か知ら』。古風だし、含みというか余韻があって」
「俺も使ってみようか知ら」

 残業と24時間照明に輝く風景のなか、車は大きなカーブをなぞりながら橋を登る。

 会話が尽きた沈黙を彼は嘆息で受け入れる。綺麗だね、と無言のうちに認め合うリレーションシップを彼は期待していて、私は、ここにいる彼が偽物だったら良いのにと、夢見心地で助手席の居心地の悪さを噛み締め微笑む。

 本屋で同じ本を手に取ったとき、彼が青野理史だと知っていた。互いの指先が交差したのは、彼が好きだと公言していた作家の新作だった。
 言葉を交わしたあとも私が予測していた彼の姿に何の意外性も訪れず、彼は雑誌とラジオとステージに現れたイメージそのままに生きていた。私の集めた雑誌の数を彼は知らない。ラジオを聴いたこと、音源を忘れずに買い続けていること、何度もライブハウスで出会っていることを、彼は知る由もない。
 彼は無邪気にも私の存在の全てを偶然だと信じ込んでいた。その偶然の危うさや奇跡と呼ばれている領域を彼が好き好んでいることは、言われなくとも数々の文献から既に私の知るところであった。本当の偶然は、書店で手が触れ合ったことだけで、つまり彼の背中を追い掛けているうちに本当に追い付いてしまったのだという、敷かれたレールの上での偶然だった。

「いいのかな、俺の好きなものばかり見せているけど」
「いいよ。私、知らないものを見たい」

 デートはアンフェアな均衡の上に成り立っていた。彼は私をひとりの個人である植草詩苑としか知らない。一方私は青野理史を紙面と音楽のなかで熟読していた。彼が私を導いた先は彼的な風景そのものだった。夜景、交通、夜の海は、世間の恋人が認めるベタさを遥かに越えて彼が歌に綴る心象風景の祈りそのもので、恐ろしいのは、今夜のドライブの情景がいつかの新曲に編み込まれても、私は平然と新譜を買い、音源もライブも何もかも知っているとは彼に伝えず、無知の振りをして彼に会い続ける様が容易に想像できてしまう点に尽きた。

 とはいえ彼自身も恋においてアンフェアであることは否めない。しかし彼の内奥の事情を、明かされる前から手中に握っている私の方が、二人の関係において遥かにアンフェアだった。

 レーベルの会報誌の連載エッセイにこんな旨がさらりと書かれていた。会報誌は一般雑誌よりも遥かに気さくでプライベートに綴られている。

「僕はラブソングを書けないんです。僕自身が、人を好きになるとかいう普遍的な感情から隔てられているみたいで。ラブソング、好きな曲は沢山あるんですけどね。でも自分に代入して聴くことが全く出来なくて、遠くの対岸の素敵な出来事にしか思えない。伝承程度にしか思えないのかな」

 精一杯ベタなデートコースを辿るのにはそんな意図もあった。彼は恋人の振りをしながら恋人になろうと苦心していた。
 恋の実験台は素敵な偶然の導き合わせで出会った私だった。しかし私は彼の奮闘の何もかもを既に知っていた。

 車は夜を滑り、橋を渡る。どこか適当に降りようと言って、だだ広い駐車場に車をつける。

「お台場っていつ来ても荒涼としてる」
「違いない」

 煌々と白色光を放つ街灯の連なりは、夜道を歩く男女の行先を明るく照らすというよりも、脱走者や落伍者を追い立てる冷酷な監視の目のように輝いた。本当にベタなデートならばここで高層ビルの上階のレストランでシャンパンでも交わすべきところだが、彼にはそんな発想がない。そんなベタな恋人の実在を、彼は彼自身が告白したように、恐らくは小説程度にしか認識していない。

 お台場は大地ではない。地に根ざした生活は、夢で埋め立てたこの土地には存在しない。お台場の夜景は幻燈として、遥か上空のレストランから見下して眺めるための見世物だ。
 なのに彼は光と高さに背を向けて、夜景の暗闇へ、コンクリートに埋め立てられた暗い海の方へ歩いていこうとする。冷たい風が吹く。背を向けた光のなかにはZepp Tokyoのステージライトも恐らくは微かに紛れている。

 私は駆け出す。左手を絡め取り、温かく硬い手の平をしっかり握った。ほんの一瞬翳った彼の表情に、私の胸がどこまでも冷えきっていくのが分かる。微笑み合う度に私達は異なる理由で凍えていった。彼は恋愛不可能性に対する困惑と微かな絶望から。私は全てを知りながら無知を振舞う己に対して。

 恋人ごっこの来るべき破綻はきっと、いつかのステージで彼がフロアの私を見つけてしまう日に始まる。願わくばいつかのホワイトリゾーツであるといい。おめでたい名前のライブハウスで夢物語が終わるといい。

 均衡が崩れたとき、私はもう、人波に埋没して二度と姿を現してはならないと承知している。ファンとミュージシャンのアンフェアで転倒した上下関係も、彼の不完全な恋心とそれでも努めた優しさも、臨界を迎えようとしている。どちらが先にハンドルを手離すだろう。回るコーヒーカップに乗って、遊星の自転に突き放される。

(いつかさよなら、私のプルート)


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