住人
わたしは、別に、音楽を聴かない方でしたが、VIIIIさんに勧められて、最近ちょっとずつ聴くようになりました。なにがいいとかこういうのがいいとか、そういう広いことや深いことは言えませんが、それでもVIIIIさんの知っている世界は知らない深さを湛えていて、わたしは新鮮な思いで音楽を聴いています。
かれはこの街に住んでいる誰かで、きっと一度ぐらいどこかですれ違っているかもしれません。誰か一人の外側を知らず、内側の抽象部分だけを覗き見しているような気分です。同い年の誰かが、こんなに深く鮮やかな内面を秘めていることにわたしは感動しています。誰かの内側。内面世界。
みんながここにいることを許してくれる。
ノートに音楽の歌詞を写しています。歌詞ってコピペ出来ないので手書きで写すしかないのです。音楽を聴きながら歌詞を読み返します。歌は聴こえてきませんが、きっと今この辺かなと歌詞を追います。
“僕にとってこのバンドは特別なんです。僕がなんとなく思っていた理想の音楽に、こんなにすとんとおさまる曲は初めてでした。どの曲を聴いても好きなんです。こんなこと滅多にないんじゃないかって思います。
だから、傲慢だとは分かってますけど、はじめてDrive to Plutoを聴いたとき、これは僕のための歌なんじゃないか?って本気で思ったんです。歌詞も音も。”
だからVIIIIさんのことを思い出しながら聴きます。
みんながわたしにおしえてくれます。本や海や歌のこと。ソファに寝そべって目を瞑って、聴こえてくるものに思いを傾けます。わたしは何かを誰かにあげることが、まだ出来ません。
部屋は、静かで、イヤホンからの音楽がすぐそばで聴こえます。
“ボーカルはもともと歌える人でした。でもあるときから、何でか知らないけど、急に歌うのを止めてしまったみたいです。
でもボーカルなりに歌っているみたいなんです。前に、夜中ひとりで聴いてたらブレスが聴こえました。
(もしかしてドラムやベースの人のブレスかもしれませんが)
息遣いが聴こえるのが何か感動的でした。歌っているんだなって。”
だからわたしも耳を澄まします。すると確かに聴こえました。時々。息が聴こえます。もしかしてこの歌声は透明なのかもしれません。歌ったそばからすっと宙に拡がって、聴こえなくなってしまう歌があるとしたら。
それで、わたしは、日が暮れても、部屋の明かりをつけませんでした。空が、だんだん青から黒に変わっていくのを、ソファに寝そべって眺めていました。耳元で吐息だけの音楽が囁き、ぴこぴこ鳴って、空が暗くなるのが、だんだん海底に沈んでいくみたいに、街に海が注がれていくみたいに、いろんなものが遠くなっていく気がする。声も手も届かない。そしたらわたし、一番の奥底に沈んでひとりぼっちみたい。
なんて思ってたら扉が開いて、二人が帰ってきました。ちょうど曲が終わったので、イヤホンを外してソファから起きあがりました。ただいまと言ったザムザさんにいつものようにおかえりなさいを返しました。わたしのブレスは聴こえました。ただいまと帆来くんも言いました。コンビニに寄ってきたみたいで、お酒の缶とか、プリンとかを冷蔵庫に入れました。
「ジンジャーエール入れときますね」
わたしの分も買ってくれました。ありがとうってわたしは頷きました。
お夕飯食べてお風呂入ったりしてコンタクトはずして大方落ち着くと、ソファに座る帆来くんはなんだかもう眠そうでした。わたしは髪を乾かしながらすぐ隣に座りました。わたしが彼を覗きこむと、彼もわたしを見て、少しだけ頷きました。
「疲れてしまったんです、今日は」
小さなため息をしてそう言いました。わたしは両手を伸ばしました。わたしもなんだか少し疲れてしまったみたいです。でも疲れてない日ってあるのかな?
テーブルに、ザムザさんがお酒の缶を置きました。夜用のゆるいTシャツ姿。
「何、疲れてんの?」
代わりに頷くと、「みんな疲れちゃったのか」と彼は呟きます。わたしはジンジャーエールを注いでもらって、大人二人がアルコール。かんまんに手を伸ばす眠たい動き。
「おおい、そんなにお疲れ?」
「別に、言う程ではありませんよ」帆来くんは少し意外そうに受け取ります。
「確かに疲れている感じはしますが、疲れを訴える程の原因は思い当たりません。漫然とした感じで、色々な事が重なって、それを今日はたまたま意識してしまったような……」
『おつかれ?』
「……やっぱり疲れているのでしょうか」
「原因を絞れるなら疲れないよ。原因をスッパリ切り離せば疲れないんだから」
『いろいろ』
「色々積み重なってるから、どこか一つを取り除いてもどうしようもない。土台を抜いたら余計崩れるみたいに、ややこしさ極まれりかも知れない」
『リラックス』
「そうだね、気分転換。
で、どうする」
肩を叩いたようです。
「どうって」
「どうでも」
「どうなのでしょう」
彼は目を伏せます。自問。「どうなのだろう」
たのしいことしようよってわたしは言いました。でも彼には見えていません。ちょっとさびしい。
たのしいことはすぐに忘れてしまうから、毎日たのしくしていかないといけません。
わたしにあげられるものがやっぱり見つからない。
どうしよう?
ペンを取って、ちょっと考える。どうしよう。物静かなひとは、何が一番たのしいのかな。
「音楽でも聴く?」とザムザさん。
「僕の部屋ですよ」ミニコンポがあります。
「時々借りてる」
「……」
「ごめん」
ごめんって言いながらも結局使うのがザムザさんなのですが。でも何を聴いてるんだろう? わたしも聴けたらいいな。
帆来くんは机に伏しています。重力に負けちゃったみたいに。疲れているのか考えて考え疲れてしまったみたい。やっぱり真面目なんだろうなあ。わたしは隣の席に移って彼のことを眺めました。腕に血管。こっちを向いてほしくて静脈を指でつつきます。顔を上げた彼にちょっと笑ってみせると、彼はよく分からないってふうにわたしを見ます。わたしは変なひと? わたしの喋ることは彼には聴こえない。わたしも別に、聴かれなくていい。そういうのは、会話とは言えない? みんな、何も言わない。疲れちゃったの? わたしはどうだろう。ペンを出して書きつけます。
『あそびにいこうよ こんど』
「……そうですね」
帆来くんはそう言って頷く。でも、今度っていつだろう。いつでもいいって言ったけど、そしたら叶わないままずるずると時間に流されてしまいそうです。
prev | next back / marker