雑談相手


 随分昔、父に連れられて、西S駅から下流の交通公園までT川沿いを散歩したことがあった。父はかつてこの分流の此方岸に住んでいたが、河川の拡張工事のため父の家は市外に立ち退き、生家は今やこの川底だと語ってくれた。聞き手の僕は十歳そこらで、語りの中の父の齢もそれと同じかもっと幼いかだった。彼岸にはその頃から精神病院が建っていて、父は周囲の大人から、あの病院には本当に狂って壊れてしまった人間が入院していて、素行の悪い子供もあそこに一緒に閉じ込められると脅されて行儀良くしていたと言う。川の向こうに行ったら戻れなくなる。今でこそ馬鹿馬鹿しいしひどい話だ、父はそう笑っていた。僕は「狂って壊れた人間」が分からなくて父に尋ねた。思い出してみれば父はだいぶ慎重に言葉を選んだ筈だ。

「思っていることがみんなとはずっとかけ離れてしまって、話が通じなくなってしまった人だろう」

 そう言って、また慎重に付けくわえた。

「でも治るんだよ。治るから病院があるんだ」

 それから知ったのは、治ると分かったのは二十世紀に入ってからで、それ以前あるいは戦時下では「狂って壊れた人間」は幽閉されるか殺戮の対象だったということ。
 考えたのは、あの頃から僕は向こう岸にいたということ。

 あれから、あの病院にこそ通わなかった。十七か八の時父が探し出したクリニックは新宿の一区画にあり、あとで調べたところ新宿には九十件超の精神科・神経科・心療内科医院があるらしく、選び放題だったらしい。初回だけ父と行き、病名を与えられ、いくつかの錠剤を与えられた。服用したが、変化はなかった。薬が無くなる頃に行き、薬と雑談を与えられた。全くの雑談だった。その時の医師の趣味はスキューバダイビングで、石垣島でマンタと泳いだそうだった。僕はいいですねとだけ答えた。感動的な体験でしたよ、やってみてはどうですと医師は語りかけた。そのうちやるでしょうと僕は答えた。医師は僕を面白がったが、僕には無益さばかり募った。紙幣を錠剤に両替しているようなものだった。じきに通うのを止めた。
 今更受診を決めた理由は周囲の圧力以外になく、行かなきゃ敬司君や井下田君に怒られるからという消極的な発想に他ならない。いずれ両親や塔子さんと目見えた時の免罪符が欲しかった。一応行っています、けどやっぱり駄目そうです、だからもう僕のことはどうか放っといて下さい。と。
 とは言え自分なりに変化というものを考えた。九十もある精神科の中から一件を選びなおすだけだった。市内にもあるし、キャンパスの傍にもあるだろう。どこでもよかったしどうでもよかった。検索をかけて適当に目に留まったところにアポイントを取り、十二時に面談した。同じく新宿エリアであるが、今迄の医院よりは駅から離れ、雑居ビルの十二階で、道に迷いそうな立地だった。実際道に迷いかけ、予期せぬ散歩となった。それでも時間には間に合った。迷って丁度良い位だった。
 そこで、珍しく、何も貰わなかったのである。病名も紹介書も与えられず、「経過観察」僕を診た若い医師は言った。僕は、不服はないが、これは雑談に金銭を支払っているのではないかとはっきり口に出してみた。どうせもうこれきりの関係だろうからといささか不躾に振る舞えた。医師は、ごもっともではあるが、それが治療なのだからと但しを付けながらも、

「けれども金銭を支払わないと話す相手もない人も、なかなかいらっしゃるのですよ」
「僕にはいます」
「雑談相手」
「はい」
「それは素晴らしい」

 僕はありのままを語り、医師は大変興味深いと答えた。

「凝り固まっていますよ、あなたは。複合的に絡み合っていますから、その奥深くから、一つずつ解していくほかないのです。今はつらくないのでしょう。だから、いずれつらくなったらまたいらっしゃって下さい」

 行かない気がした。「もうひとつ質問なのですが」
「はい」
「症状が出た時であれ苦痛でなければ来なくて良いということでしょうか」
「あなたが必要とするときにいらっしゃって下さい」

 お大事にどうぞと医師は言った。医師は誰にでも言った。経過観察。変化。

 空腹だったがそのまま帰宅して遅めの昼食にしようと決めた。帰りの電車で、昨日から読み続けている小説の続きをめくった。活字を追う目は止まりがちで、僕は変化についてとめどない思考をあそばせていた。電車の揺れに身を任せ、昼の光にあてられてなかばうとうとしていた。変化は、やはり、二人の同居人が最たる異邦人だった。僕らはもう慣れた筈だ。すると、変化を細密にとらえる余裕が生じるのかも知れない。「経過観察」を反芻した。無性にこれを誰かに伝えた方がいい気がしてきて、誰かにを突き止めればそれは塔子さんだった。僕は会話の中で経過観察と診断されたことをこぼし、彼女はなんでもない相槌をするだろう。彼女は次の話をはじめる。彼女にとっては取るに足りない、しかし僕には、ささやかな吉兆のように思える気がした。


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