名もない時間。
 髪はまだ少し湿っていて、最近何度目かの「そろそろ髪切りたいなあ」を思う。髪をなでつけたり背もたれに身体を任せたり欠伸に似た吐息をつきながら、皆それぞれ別のことを考えているんだろうと想像する。
 ふっと横を見るとセレスタがおれを見上げていて、「なに?」と尋ねると『なんでもない』とはぐらかされ、まあいいかと好きにさせると脇腹をつつかれる。くすぐったくもないから放っておくと残念そうな顔をされる。気付けば家主もこのやりとりを見ていた。そこで事を思い出したのか、それとも発言の機会を伺っていたのか知らないが、「そうだ」と小さな独白が聴こえ、おれたちは彼に注目する。

「映画はお好きですか」

 どちらかというとセレスタに向けた提言だった。突然の映画の二字にきょとんとなるセレスタだったが、

「知人から、映画のペアチケットを頂いていまして。僕も知らない小劇場なのですけど、宜しければご一緒しませんか。昨日の水族館も併せて」

 そうと分かればセレスタはにっこりして。

「いいじゃん。二人で楽しんできなよ」

 おれも賛同を示す。すると家主は一転、おれの予想を超えて、

「貴方も同行するんですよ」
「……え?」
「お暇なのでしょう。それに貴方は料金も掛かりません。利用しないのですか?」

 けろりとして真顔でのたまう。

「お前、悪知恵ついてきたな」
「誰のせいでしょうね」

 家主にセレスタが大きく頷く。結局彼ら、なかよしではないか。

『水族館』

 ノートの一ページに書いたそれを、セレスタは色ペンで何度もくくった。ハートと花を描き足した。標が確かにかたちを得た。

『どこ?』
「どこでもいいよ、っていうかおれは知らないから任せるよ」

 二人して家主に目を遣ると、彼は名前をいくつか挙げて(おれは何も知らない)セレスタと少し話すと合意したようだった。

『いつ?』を『水族館』の下に書いて家主に問うと、彼はうつむき沈黙した。セレスタにはただの思案に見えただろう。日付は彼に困難な質問だった。口を挟もうか話題を逸らそうか、考えているとそれよりも前に彼は言葉を発した。

「特に日付を決めなくてもいいのではないでしょうか」

 思ったよりも憂いのない、憂いを与えない発音だった。

「電車で二時間も掛からないでしょう。いつでもすぐに行ける距離ですよ。
 逆に日付を決めてしまうと、例えば天候不良や何らかの事故で約束が果たされないかも知れないから……僕はそちらの方が悲しいです。
 行こうと思えばいつでも行けます。だから特別に日程を決めずに、行きたい時に行けばいいと思います。映画も、水族館も」

 つまり彼なりにとても楽しみにしているのだろう。

『海』と書いた彼女の文字に家主は確かに頷いた。

「うん。海。いいなあ」

 口に出して見ると思っているよりもずっと“いい”ことのような気がしはじめた。晴れた日がいいと思った。

「水族館は、海の傍にあるの?」
「海の、傍にあります。すぐ目の前に砂浜を臨んでいます」

 静かな調子は変わらないが、きっと彼は根本的に海が好きで、それはきっといいことで、そこに壁は存在しないのだろう。
 平穏な調子を崩さないまま、

「貴方も、何か希望があったら教えて下さい」

 突然だったから驚いた。望みもしていなかった。

「おれ?」
「はい」
「今は……希望……無いなあ……はは」
「何故笑ったんですか」
「あ……いやあの、要望の希望が無いって意味だったんだけど、未来の希望も無いなあ……って」

 セレスタが笑いながら頷く。
「いや、認めんなよ」またも頷く。

「希望無しですか」
「そう言われると無理にでも希望を持ちたい」
「強制している訳ではありません」
「アマノジャクなの。駄目。考える」

 隣でセレスタは枕を抱えて欠伸して、家主なんかもう目をつむってうとうとしているように見える。彼ら、電車でうたた寝する様がかんたんに想像出来る。かく言う自分も眠いと言えば眠い。
 もう、今日は終わってしまうのか。今日もあっという間に過ぎ去ってしまった。日々を持て余しているのか置いてけぼりを食らっているのかおれにはもう分からない。たぶんどちらも変わりは無い。自分にはもうカレンダーは必要ない。たぶんもう人生で急かされたり待ち望むようなことも無い。だから希望は、明るくてささやかで日付に関係なく今にも叶うものがいい。

「あ……じゃあ、一遍、川の字で寝ようよ」

 希望を思いついた。

「川の字?」
「今晩、あっちの部屋で、雑魚寝することを希望する」

 家主は賛成とも反対ともつかない無表情だけど、セレスタは拍手したから多数決では合意している。賛成でも反対でも彼は従うつもりらしいが。

「シングルベッド二台なので、間のランプを退かせば」
「押せば動くよね? ベッドをくっつけちゃえばいっか」
「そうですね。僕の毛布も持ってきましょうか」
「うん」

 彼が自室に戻っている間に、おれは寝室のスタンドライトを脇にどかして、少し重いベッドも動かした。ぴったりくっつけたかったがどうしてもマットレスの間にわずかな溝が出来てしまう。こんなもんかなあと呟くとセレスタがやってきてベッドに座った。
「幼いよねえ」とぼやいてしまう。セレスタが目を上げる。

「やりたいことは? って訊かれて、添い寝だよ。お泊まり会みたいだね。毎日お泊まりしてるのに」

『わたしは たのしいです』とサイレント。それから紙とペンを出し、

『楽しければいっかーって思うのでザムザさんも好きにすればいいです』

「……そっか」


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