ブラックバード #6



 さすがに一番風呂は家主に譲った。家主はかなりの長風呂だがおれは烏の行水が常だった。ただ今日の湯加減は素晴らしいものだったから珍しく長々と浸かったと思う。湯船の中、手で水をすくって遊んだ。
 夜間着に家主のジャージを借りた。背丈が近くて助かっている。彼はやわらかな綿のシャツにセットしていない髪型で、昼間よりずっとラフな格好だったけど、几帳面にも喉元まで第一ボタンを閉めていて、しかしこれが彼にとってのラフなのだろうから口出しすることは無い。入浴して機嫌を直したらしく、おれの姿を認めると彼は冷蔵庫からチューハイを二本取り出した。無言で一本差し出され、滞りなく受け取った。
「ありがとう」席に着き、おのおの適当にプルタブを開け適当に喉に流した。今日も長く短い一日だった。自分が帰宅したのはつい十二時間前だった。

 ちらちらと帆来くんの目線が刺さる。

「なに?」

 見返すと彼は思索の為に目をそらし、

「僕の服を着ていると、胴体の量感が見えるので……存在している、と思ったので」
「存在してないと思ってた? 幽霊みたいに、実体が無いって」

 冗談めかしながら顔を近づけると、相手は身を退き、惑いながら、

「嫌でも、存在していると思えます。人間の形があり、会話が出来て、触れることが出来ます。それ以上に僕だけでなく、セレスタさんも、過去の公園での出来事も、多数の人間が貴方を認識しています。だから貴方は確実に存在しています」

 ふうん。
 率直な意見というのはどうしてもくすぐったくて笑ってしまう。相手はいつでも真面目だから尚更だった。
 席を立ち、冷蔵庫の中で肴になりそうなものを探したが見つからなかった。プリンは三時のおやつだから却下、新たに一品拵えるのも面倒くさい。結局何も持たずに戻ってきた。

「じゃあ、認識は多数決原理なんだ?」

 彼の言葉は滑り出しこそ重いが、ある一点を越すと途端に流暢になる。会話が暫く流れた所でまた停滞する。また流れる。緩急を繰り返すリズムで、浮き沈みとも呼べた。

「普遍性が必要です。僕ひとりだけなら見間違いの可能性も否めませんが、人や他の生物も認識に加わっていれば、見ているものが本当に存在すると断定して良いのだと思います」
「でも、もしかしたら皆が嘘をついているかも知れないよ」

 と、おれが言ったとき、彼は丁度瞬きした。

「その時は、きっと、誰も信じられませんね」
「困ったねえ……」

 困ったと言いながらも本当はわらっていた。どこからどうやって何を話そうか考える。ちびりちびり呑んでいたらいつの間に呑み干してしまった。すっからかんになったアルミ缶を机に立てた。彼は缶に口を付けながらおれを透かして遠くを見ているらしかった。

 話を振っ掛けようとする時は、ある程度反応を予想するもので、予想と結果が一致するとなかなか楽しい。ふと思い浮かんだ一言をどう切り出せばいい反応を得られるか、いい反応とはどういうものか、一秒のうちに巡らせる。出し抜けに問い掛けた時、彼はチューハイを口に含む所だった。

「タカハシさんって、いい女?」

 成功。吹いた。
 昼間よりずっと愉快な動揺だった。もっと盛大な反応も期待していたのだが空咳数回で彼は落ち着いた。沈着な態度は失わないが、疑念でいっぱいの眼差しで、

「どこで、塔子さんのことを」
「タカハシ トウコ、っていうの?」
「そうですけど、それを、何処で」

 内面の動揺は静まりきっていないようだ。

「昼間、巡査が出してた名前だから、いい人なのかなあって」

 高田氏の名を挙げると帆来くんはまた塞ぎ込むかも知れなかったが。

「いや、おれさ。前にあのお巡りさんに会ったことがあって、というかかなり悪戯しちゃって。だから、あの人の顔と警察ってことは知ってるんだよね」
「悪戯?」
「ヒザカックン、しちゃった」

 ウインクを飛ばす必要も無かった。呆れと苦笑の入り混じった空気だった。

「よくやりましたね」
「あのときは気が立ってたから誰彼構わずやっちゃってたねえ」

 頬杖をつきしばしの沈黙。

「で、高橋さんは?」

 と、遠くを見ていた彼を呼び戻すと、彼はまた一口嘗めてから、静かで長い吐息と共に缶を置いた。
「塔子さんは」、と言いかけてから、いや、と訂正し、

「高橋さんは……高橋さんと僕の父親同士が親密な仲で、それで僕と高橋さんも付き合いが長いんです。高校、大学も同じでした」

 ゆえに名前で呼ぶ程の仲なのだと知る。

「で、どんなひと?」
「どんな人、と言われましても」
「きれい?」
「綺麗と言えば……綺麗なのでしょう。一般的には」

 本人不在で相手を語ることへの懸念がちらちらと伺えた。

「女優なんです。大学の映画サークルの作品で主演をつとめたり、劇団にも所属していたそうなのですが、詳しいお話は聞いていません」
「へえ……女優。どんな感じの」
「僕は映画も演劇も疎いので彼女の評判は分かりませんが……きっと巧いのだと思います」
「でも、俳優で食っている訳ではない」
「そうですね、それに今は活動していないそうです」
「成程ね」

 と、おれは考え込む振りをして、適当な間を空けてから、

「つき合ってんの?」
「は?」

 今度は吹き出すものも無い。疑問符だけ発音したらこうなるであろう腑抜けた返答。

「何を、いきなり」
「親しいんでしょ?」
「親しい、親しいのでしょうけど……」

 他人の動揺を目の当たりにするとどうしてもわらいを堪えきれない。これが醜悪な趣味であることは分かっているが、今となっては治す気も無い。

「昨日も後輩に同じことを尋ねられたんです。それに僕はそういう気は全く無かったので……」
「それ、盗られちゃうんじゃない?」
「盗られる?」
「皆、高橋さんはお前と付き合ってるから手え出せなかったけど、そうじゃないって分かったら人気殺到じゃないかなあ、って」

 見えないながら意地の悪い笑みを浮かべてやる。そして向かいの呑みかけの缶に手を伸ばし――

「空ですけど」
「あれ?」

 予期していた重さには全く足りないアルミ缶は、左右に振るとピチャピチャと安い波音をたてた。


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