「帰るの?」
おれの声を聞き帆来くんも彼女を見た。セレスタも彼を見た。彼女は首を振った。苦笑混じりの笑顔を浮かべて、家主に対し語ったが、相手は読唇を心得ていない。
『おふろはいれないのでかえります。めいわくかけてすみません。わたし、じゃまですよね。ごめんなさい。ありがとうございます。おやすみなさい……』
「……セレスタさん?」
伝わらず、呆気にとられる反応を分かっていながら、セレスタは荷物をまとめて玄関へ立とうとした。
その手を、驚かれるとは分かっていたが、とっさに掴んで引き留めた。セレスタ、と名を呼んでいた。少女の手はおれの予想よりもずっと細く、だから少し痛かったかも知れない。おれは自分の手元が見えるけれども彼女は何をされているのか分かっていない。戸惑いおびえた目で見つめられるとさすがに良心が痛む気がした。――良心? プライドの間違いではないか。
「……別にいいよ、気遣わなくて。いいんだよ。こいつ、気付いてないから。遠慮なんていいんだよ。食事と召使い付きの別荘だと思って好きにしてやればいいんだ。ここでは楽しくていいんだから、こき使ってやろうよ。な?」
ここは笑顔で抱擁するシーンなのに、伝えられなくてもどかしい。言葉にすることしか出来ない。手を離し、髪をなでた。セレスタは俯いていた。大きな青い目がこぼれ落ちそうだった。沈黙ののち顔をあげ、そこには新しい笑顔をつくり、明るい早口で、
『でもやっぱりおふろはわるいのでうちでシャワーあびます。コンタクトとかクレンジングとかあるし。ぜんぶおわったらまたこっちにかえってきます。じぶんのまくらもってきます。そしたらいっしょによふかししましょう』
安心した。
「ごめんね。おれも気遣えなくて」
セレスタはかまわないよと笑い、そしておどけた敬礼を見せ、今度こそあっという間に去っていった。把握していないのは家主のみである。何か言いかけては狼狽している。残念な奴。それでも紳士かよ。
「お前、彼女いないだろ」
「え……?」
やはり呑み込めていないらしい。肩をすくめることは出来ないから代わりに大げさに呆れてみせる。
「セレスタはコンタクトのお手入れしたり化粧おとしたり諸々忙しいから帰るの。またこっち来て、こっちで寝るって。女の子なの。乙女は大変なの!」
しかし何故おれが乙女を代弁しているのか。疑問は後回しにして続ける。
「でもあいつにとってお前がプレッシャーになってる。あの子は、ちゃんと頭がいいから、お前に遠慮しちゃってるの。お前の家に行ってご飯食べてくつろぐことにちょっと罪悪感があるんだよ。お前もお前で、今、セレスタに遠慮してただろ。
昨日は仲良しだったんだろ? なら、今日も明日も仲良くなれよ」
「……でも」
「なに」
家主は口ごもった。逆説だが、これでようやく対話が出来る。
「でも、昨日と今日は違うんです。昨日上手くいったとしても今日は勝手が違うんです。日付は連続しないんです。今日は、明日に繋がらないんです。上手くいかないんです。僕も、セレスタも、きっと違うんです」
「知ってるよ、そんな事」
言うと、男はほんの一瞬だけ、驚きに目を見開いた。
「でも」
「知ってるっつうの。夜とか朝とか日付とかあんなもん当てになんねえよ。毎日毎日どこかでリセットされてんだろ。だから歩み寄るんだよ。昨日みたいに。改めて。何度でもさあ。今日また一から仲良くなればいいだろ」
家主は黙り込みまた考えた。
「そう思いますか」
「ああ」
「昨日と今日が一緒じゃないって」
「思うよ、すごく」
彼は床を見つめていた。
「僕だけだと思っていたんです。昨日と今日は本当は連続していないのに、そういう感想を口にすると、変な風に扱われるんです」
「皆本当は気付いてるんだよ。でも毎日が違うって認めたら生活が成立しないだろう。気付いていない振りをして、同じってことに決めてるんだ。不文律だよ。暗黙の了解ってだけ」
感傷気味に俯いていた男は、ふう、と溜息を一つもらした。
「僕だけじゃ、ないんですね」
この男はそんなことを気に病んでいたのか。
「そうだよ。特別でも異常でも何でもない。意識してもしなくても普通に生きていけることだし、お前が悩まなくても変わらない。
……分かったら早く風呂洗ってこい。この、下僕」
「……下僕?」
言うや否や、男はキッと顔を上げ、心外だという目つきで見えない筈のおれを睨む。喜ばしいが、どうでもいい。おれは傍若無人の台詞を吐きながら見えない笑みで微笑み返す。台詞と表情と心情は必ずしも一致しない。
「そうだよ下僕。おれは自由に棲み着くって言ったんだからな。これは契約だぜ、忘れたとは言わせねえよ。分かったらさっさと働け下僕。風呂上がったら洗いざらい聞かせてもらうからな、下僕」
家主は最後まで話を聞かなかった。何も言わず浴室へ向かい、バタン、と扉を荒々しく閉めた。人並みの自尊心を居候ごときに傷つけられれば人並みに羞恥心に憤るだろう。
おれは、鼻で笑う。ソファに深くかけ、足を組み、浴室から聞こえる怒りのシャワー音に耳を傾ける。自然と口元がゆるんでいく。
まったく。喜劇俳優も楽じゃない。
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