ありあわせの献立を考えていたのに、冷蔵庫には主菜となり得るものが何も無かった。残っていた白飯と卵が目に付いた。卵かけご飯。あんまりである。僕ひとりならそれで済ませたこともあった。もう少し思考して、オムライスという結論に至った。玉葱とケチャップが十分量あることを確認した。ろくな具材が無い。出来上がりの質は問わないことに決めた。
 ケチャップライスは手際が悪くもそれなりを作ることが出来た。難儀なのは卵だった。一枚焼いたがフライパンから剥がせずに大きく裂けてしまった。二枚目も同じく酷い傷が出来た。けちに卵を一つしか使わなかったせいだろう。(卵六つに生クリームを加える高級なオムライス店をうろ覚えに知っている。……それも塔子さんに聞いたように思う)諦めて、無様に裂けた二人分のオムライスをテーブルに運んだ。

 ふと見るとセレスタは目覚めていて、ぼんやりとソファから身体を起こしていた。彼女が僕を見た。
「おはようございます」
 言うと彼女は頷いた。寝呆けているのかもしれない。
「寒くなかったですか」
 彼女は否定し毛布を置いた。僕は彼女の声を思いだそうとした。
 そうして僕がぼんやりしているうちに、彼女はソファを立って僕の向かいに座った。二人分のマグに緑茶を注いだ。彼女は不出来なオムライスをまじまじと見つめていた。目覚めたばかりで食欲も無いだろうし、見て呉れも他人に振る舞うにはあまりに無様だった。

「食べられますか」
「無理に食べる必要はありません」

 僕のことばを彼女はきょとんと聞いた。反応無しと思ったが、彼女はふっと笑みを見せた。僕の皿を手に取って、ケチャップで赤い線を描いた。笑顔の絵だった。

  :)

 そして自分の皿にも同じものを描いた。
 食べる、意志を示したらしかった。返答につかえた僕は小さく一礼した。そして手を合わせ、いただきます、を言う。

 黄色い顔の端からスプーンを入れていった。焦点の合わないケチャップの顔が笑っている。食べられる味だろうか、一抹の不安に締め付けられた。彼女は黙々、静かに食べ続けた。顔にスプーンを差し、彼女の描いた笑顔を歪めた。たんたんと薄焼き卵が消えていく。……そうして残さず食べて手を合わせた。ごちそうさま。

 彼女は机をノックし僕の顔を上げさせた。彼女は口の動きで四音を語った。サイレントのそれは、
『お、い、し、い』
と言ったらしかった。
 かすかな安心を覚えた。僕の一礼を彼女も真似た。

 僕は食器を洗い、彼女は二杯目の茶を注いだ。二人で残ってしまった家は妙に静かであった。一番喋る男が居ない。もしかして本当はこの場に居るのではないかとも考えた。しかしやはりあり得なかった。席に戻り茶を飲みながら、その透明人間と目の前の彼女を考えた。見えない彼、喋らない彼女、間に立つ僕は何と呼ばれるだろう。目線を落とせば、カップの水面に天井の電灯が映りこんで揺れていた。光の屈折現象、水底が近くに浮いているように見える。虚像である。差詰め、僕は、溺れた男。

 セレスタはソファに移り僕を呼んだ。彼女は『水の生物』を膝の上に開いた。補修を重ねてぼろぼろのたたずまいだった。僕もこれを抱いて眠ったことをかすかに思い出した。

「どこにありましたか」

 問うと、彼女は書斎を指した。あの雑然のなかにどうやら二十年近くも潜んでいたらしい。

「無くしたと思っていました」

『あなたの?』と彼女の文字が問いかける。頁には他にも今日までの会話の跡が記されている。断片的ながら、見れば過去の会話を思い出せる。今、ここには『あなたの?』という新しい会話。

「僕が幼い頃に呼んだ本です。小学校に入学して、一人部屋を与えられた時に、父に貰いました」

 “淋しがっていた”僕へのプレゼントだった。
 『大切』と彼女は言う。恐らく僕もそう思う。かつては願いを込めて図鑑をめくる日々だった。繰る日も繰る日も

「毎晩読んでいたように思います」

 頁をめくる。様々な名前と姿と生態を思い出す。

「何をしたという思い出はありません。けれどもこの図鑑の中の出来事は、幼い僕には未知の領域で、読書はとてもたのしかった」

 かつては毎日この世界に入り浸り、頁の中の彼らと戯れようとした。結局願いは叶わなかった。僕はいまだに淋しいままで、冷めきっていると言われたことを思い出す。僕が冷めているから淋しいのか、結果として僕が冷めているのか、それは分からない。

 彼女はウニの一種を指し示した。スカシカシパンだった。かつての僕も目を留めた名前だった。今見ても滑稽だと思う。名付けとはエゴだとも思う。
 カシパンの名の通り丸く扁平で棘が目立たず、花柄の模様付きだから、女性は好むのかもしれない。
『あんぱんみたい』と彼女は語った。『すき』であるとも。

 そういえば。
 思い出して、彼女を連れて書斎へ向かった。過去の収集があった。どこだったか。と、キャビネットの引き出しを探ってゆく。貝殻やシーグラスなどと一緒に仕舞っていた筈だ。見つけた引き出しをそれごと外して床に置いた。貝殻をまとめた箱の中にそれはあった。記憶していたよりも小さかった。セレスタに手渡すと、彼女はきょとんと分からないふうだった。

「前に拾った実物です」

 どこか海へ出向く度に何かを拾う癖がある。大抵は貝殻や不完全なシーグラスだが、たった一度だけスカシカシパンの殻を拾った。平均よりも小さいが完全に近い形で、大切に持ち帰って今ここにある。彼女は物珍しげにそれを見つめる。もし気に入ったのであれば、そのまま手放してもいい。そう考えていた矢先、彼女が僕を呼ぶ。

『生きものがすき?』と、彼女は問う。

 僕は回答を迷った。生物が好きだから拾ったわけではなかった。収集の癖を持ちながら、拾う行為そのものに満足してしまい、何をいくつ集めたとか、同定とか、レッテルを貼ることへの関心が無かった。『水の生物』で満たされなかった空虚の穴埋めが収集だった。そして本当はそれも叶わなかった。生物を求めていた筈なのに、手にしたものは死骸や漂着物や出来損ないのシーグラスばかりだった。生物もそういう漂着物も、けして嫌っている訳ではないし、少しばかりの知識も付いてしまったが、純真無垢に好きとは言えない。だからとてもあいまいにしか答えられない。

「分からないんです」

 嫌いではない筈だった。そう呟くと目の前の彼女はペンを握り、速い筆致でことばを投げかけた。

『きっとすき』
『すきじゃなきゃ拾わない』
『いろんなものがある』

 最後に『好き』と書いたのを、訴えるように僕に向けた。僕は塔子さんの同じ表情を知っている。「痛切」だった。

 嫌いではないことを好きと呼んでも許されるだろうか。ならば、と、躊躇いがちに回答する。

「海が好きでした」

 呼応するように雨音が響く。

「だから生き物のことも知りたかったんです」

 彼女が僕を見る。『何がいちばん』好き? と問う。僕はなるべく本当のことを答えようとする。

「何であっても嫌いではありません。魚も好きです。鯨も貝も好きです。
 ……でも、多分、水母が好きです」

 彼女が記録するのが見えた。
『ほらいくん 好き・くらげ』
『くらげかわいい』笑う。
「水母はかわいい」復唱してしまう。

 彼女は『水の生物』を僕に手渡した。口を開いた、それは確かに『ありがとう』だった。僕も礼を言う。この本を見つけてくれた事と、好きと教えてくれた事を。

次頁へつづく


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