あわいくらやみのなか。あわいあたたかさのなか。身体をつつんでいるあわい触覚。湿度。水。
夜のプールに浮かんでいることを思い出しました。なまぬるい温度と感覚はそれゆえでした。室内プールです。高いガラス天井に無色の明かりがこうこうと整然と並んでいます。しかし明るいのは天井だけで、わたしのいる水面は夕暮れのようなうすぐらさです。水底に足がつきません。あおむけに浮いているからです。水深と広さをはかるためにわたしは身体をもちあげました。思わず息を呑みました。
底が見えませんでした。足もつかず、どこまでもくらく、果てが無いのです。あまりにたよりない闇のなかにわたしはぽっかりと浮かんでいました。50mプールの水面にもプールサイドにも、見える限りにはわたししかいません。水中はいっさいが謎でした。なにが泳いでいるのか、なにが這っているのか、何もいないのか、何も分からなくて、くらい空想ばかりが膨張してわたしを追い立てます。人を食う生き物や毒をもった生き物をわたしはたくさん学びました。怖いです。噛まれることや刺されることが怖いのではなく、ただ、彼らがいることが、それが目に見えないことが怖いのです。
わたしはプールサイドにあがろうとしました。泳ぎは得意ではありません。ふだんと勝手が違うのでよけいに疲れてしまいます。水音は思いのほか反響しました。ここにはわたしの音しかありません。水の中に静かでいることは不可能だと知りました。
ようやく岸にたどりついたときにはもうくたくたでした。水の反動をつかって陸に上がると、そのままプールサイドに倒れ込みました。あまりに疲れて身体が重く、わたしはびしょぬれのまま横たわります。そうしてそのままそこにいました。
人がいることに気がついたのはそれからです。疲れはてたわたしは目線だけを動かしてその人の存在を知りました。
その人はわたしのそばに立っていました。わたしはその人を知っています。声をかけようとして、わたしは、自分が発声できないことに気付きました。その人はわたしに視線を落とします。動けないわたしはただ目線だけを彼に返します。見上げた彼の眼はくらがりのなかの更なる影のように、わたしが浮かんだプールのように、奥底を見いだせないような暗黒色でした。
彼は口を開きます。でも何を語っているのか分かりません。そこに音声がありませんでした。二言三言同じことを言い続けているようですが、わたしはそれを受け取ることができません。
彼はわたしの隣にかがみました。人形のようにどんな表情も波立つことがありません。ただとても静かな目をわたしに向けます。わたしは目を反らしました。少しだけ怖かったのです。
……ほんとうはずっと怖じけていました。わたしはあなたのなかに居座るほどの勇気がありません。わたしは卑怯です。
思いがけず、触れられたことに、わたしは驚きこわばりました。しかしおびえたことが全く無駄なくらいに、彼はとても静かな手つきと瞳で、わたしの濡れて乱れたスカートを正しました。事務的ということばよりも更に無感情に見えました。彼はわたしの前髪も手ぐしで整えました。深意が読めません。どうして? と問いたいのですが、わたしはサイレントです。依然として彼は何かを話しかけます。わたしを撫でる彼をわたしは見つめていました。
不意に彼は新たなことばを口にしました。それは音を伴いました。新たな口調でもありました。冷えきったナイフのようでした。
――分かりますか?
彼はそう言ったのです。
呆気にとられたわたしを彼は怒りも笑いもしません。突然目が合います。底無しの黒。わたしは動けません。
――ここは僕の場所です。
彼の手はわたしの瞼をなぞり、無理にわたしの視界を閉ざしました。くらやみにつつまれます。彼はそのまま、わたしの鼻孔と口を塞ぎました。冷たい手でした。
彼の均質な声が音さのように響きます。
――ここは僕の場所です。
わたしは答えられません。わたしは、遠く、くらくなってゆきます。
【暗転】
prev | next back / marker