greysky



 午後から、急に違和感とか気だるさを感じて、寄り道もせずにはやく帰ることにしました。午後の電車は混雑こそしていないものの満席で、壁際にもたれて窓を見て気をまぎらわします。本当は座りたいです。ぼんやりします。けれども痛みは重くわたしにのしかかります。雲は厚く、切れ切れになった透き間から弱々しい青空が覗くのを、わたしはただ眺めていました。乗換駅では次の電車に座れたので、そこでわたしはその人からのメールを読み返します。

 いいことの次には悪いことがある。悪いことの次にはまたいいことがある。

 少し沈んでしまっている、とわたしがこぼしたことへのメッセージ、だけれども、励ましという感じの直球ではなくて、わたしは好きです。

 あれからわたしたちのメールはだんだんと長文になりました。最初はとりとめのない日々の報告だったのが、じょじょに内面・思考を語り合うようになり、一通受け取ったらその日は一日返信を考えて、一通送ると翌日また一通が届きます。議題は深くふかくなってゆきます。いろいろなことを考えます。きっと現実の友達とは語らえないことだと思います。出会わないから語れるのです。気負いせずに語れる哲学ごっこ。

 ふと、現実のともだちを思い返します。ともだちと呼べるのかはあやしいのですが。
 毎日家を訪ねて一緒にごはんを食べる仲は、ともだちと呼べるのでしょうか。録画した映画をみんなで見たり、ザムザさんの変な話を聞いたり、寝ている帆来くんに二人でイタズラしてみたり、たまにケーキも焼いたりして、毎日、ふつうにすごしています。

 普通? 血の繋がらない関係で、知り合いだった訳でもなく、友達とか恋人でもないことは、普通ではないのでしょう。目に見えない人がいて、わたしは喋らない人で、……そうすると、彼だけがふつうの人なのかもしれません。けれどもふつうなら、普通は他人であるわたしや透明人間という人を招かないと思うのです。
 でもわたしも本当はふつうの人なのです。ザムザさんも見えないだけのふつうの人です。やはりわたしたちはこれでふつうです。

 いつものホームのいつもの場所に電車は停まり、いつものわたしは家まで歩くのですが、今日だけはバスを利用しました。ゆっくりと揺れる車体が眠気を誘います。寝てしまえば嫌な気分も忘れると思いましたが、今は眠気よりも痛みの方が勝(まさ)っていました。無理をしているという訳ではありません。耐えられる痛みです。マンションはバス停からすぐの所にあります。久々にエレベーターを使い、一度かばんの中身を整理して色々整えてからひとつ上階へ向かいます。自室に居るという選択肢は浮かびませんでした。
 ドアに手をかけようとしたら、それよりも前に向こうから開いて
「ああ、おかえり」
と、声だけが聞こえます。ザムザさん。

 見えない人との接し方をわたしは学びました。居場所の予想をつければさほど困ることはありません。そしてわたしは彼のことをもうひとつ知っています。

『でかけるの』と、わたしはメモなく口パクします。
「うん。帰りが遅くなるから……夕食はふたりで食べててくれないかなあ。おれは今夜帰るか分からない。雨降ったら帰らないかもしれない」
『どこ?』口パク。
「えーと……川沿いのほう。旧地区。ちょっと用があって」
 いったい何の用かと不思議でしたが、わたしは尋ねませんでした。透明人間コミュニティでもあるのでしょうか。
『あるき?』と訊くと「一時間ぐらい」と返ってきます。会話はとてもふつうです。
『バス のれないもんね』
「そうだね。まあ、歩けない距離じゃないし」

 このひと、どうやら読唇術が使えるようです。
 いったい透明人間がどうして読唇術を会得したのか全く想像に及びません。しかし事実は事実なので何も言えません。スルーです。そもそもなぜ透けてしまったのかも聞いていないし本名も伏せられたままです。わたしはそれに甘んじています。だからわたしはまた口を開きます。

『ほらいくんは?』
「まだ帰ってないよ。出かけるって伝えてたけど、一応連絡入れといてくれないかな」

 ザムザさんは携帯を持っていないので伝達事項はわたしたち任せです。分かったとわたしは頷きます。

『でかける かえるかわからない ゆうしょくつくって』
「うん」
『かさは?』
「いや……持ってても、ホラーだし」
 確かに、傘だけが宙に浮くようです。でも水に濡れても輪郭だけが見えてしまいそうです。
「なんとかするよ。うん」
『かぜひかないでね』
「ねえ。医者なんて行けないもんね」
 診療を受ける透明人間を見てみたくもあります。
 なんて思っていたら頭をわしわしとなでられました。犬のような扱いです。

「行ってきます」と言って彼は去りました。届かないけど『いってらっしゃい』を言いました。

 彼がいなくなって、急に痛みがうずくのを思い出しました。誰もいないのか。さびしさを感じます。お邪魔して、鍵をかけて、誰もいない家を見渡します。わたしの家と間取りは変わらないのに、家具の位置や部屋の使い方がちがうだけでまったく違う印象です。勝手は分かるのですがルールが違います。そして匂いが違います。保健室とか理科室の冷えに似た、ひんやりと鼻の奥をつくような匂いです。最近は慣れなのかうすれてしまったけど、ときどき、ふと、その匂いを思い出します。
 誰もいない家はとても殺風景でつめたい匂いがします。
 わたしだけがじんじんと痛みを覚えます。

 かばんから薬を取り出します。数錠しかありません。わたしのグラスで水を飲みます。シャツに水を少しこぼしました。
 頭痛薬なら帆来くんが常備してそうです。睡眠薬もありそうです。そして貸してといっても貸してくれなさそうです。「効きすぎるから」と言って。

 なんにもやることがなくて、ソファに寝ころんでも何にもならなくて、携帯を見ても何も起こりません。ただ体だけが重くていかりのようでした。思い出して、わたしは帆来くんにメールします。

『ザムザさんは旅に出ました 雨が降ったら今夜は帰らないそうです 夕食はほらいくんがつくるそうです(´∀`)』

 送信。
 しばらくして返ってきたのは『了解』の一言だけ。句読点以外の記号を見たことがありません。VIIIIさんとのメールとはまるで真逆です。
 言うこともなく『(`・ω・´)』とだけ送りました。返信はありません。


次頁へつづく


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