Good Morning-4b


 こうして改まった形で夜明けを見届けたのは久しぶりだった。
 ただ見ているとあっという間の出来事だった。考える暇もなかった。でもまだ光が網膜に残っている。緑と紫で視界が眩しい。

 街は活動を始めて、眼下に人影も現れはじめた。橋を電車が渡って行くのが見えた。すっかり朝だ。今更ながら空腹感を覚える。時々一日一食の日とか、絶食の日もあったけれど、公園の一件以来酒と肴を定期的にもらうようになり、最近はそこまで凄惨ではない。おれには相当悪運がついているらしい。

 隣の少年はいつの間にか読書しはじめていた。おれひとり暇を持てあましている。もう帰ってしまおうかと思ったけれど、下にいてもやはりすること無いし、今から家に押し行ってもまだ寝てるだろうし、無理に起こしたら怒って閉め出されて出入り禁止になりそうだ。彼ならやりかねない、と思うと笑える。あいつと仲良くなったことも(おれは仲良いと思ってるよ)よかったと思っている。今の所事態は好転こそしていないけど、絶対に最悪という訳ではない。
 ゆったりと風景を眺め空腹感をまぎらわせる。七時八時位にお邪魔すればいいだろう。

 ニャウ、と、小声が聴こえた。振り返ると林の下から猫が来ていた。黒ぶちの入った白猫だった。公園では見たことない。もともとここをなわばりにしているのか、まっすぐ歩いてくる。足取りは少年に向かっているけど少年は読書中で気付かない。

 ふと思いついて猫の邪魔に入ってみることにした。猫の動線の上にわざと立ってみた。猫はおれにぶつかるだろうか?

 結果。まっすぐ進んでた猫は何食わぬ顔で迂回し、おれにはぶつからなかった。おれを認知したのか無視したのかは分からない。おそらく無視だろうが、もしかしたら、と少しだけ希望を持つ。
 猫はまっすぐ少年の足下へ行き頬ずりした。ひどく驚き一瞬硬直する少年。猫でこれだけの反応だからおれが話しかけなくてよかったと思う。猫はおかまいなしに少年にまとわりついている。マーキングされているのかな。しかしまんざらでもなさそうな少年。でもその表情は少しだけ曇っている。

 早朝の崖の上で、少年にたわむれる猫。ひかえめになでる少年。それを見ている、透明人間のおれ。
 少年がぽつりと呟く。

「……何なんだろう」

 本当だよ。何なんだ、この状況。何なんだ自分。何故ここに居る。……またはじまりそうな堂々廻りに閉口する。でも、手がかり無き今、無闇にでも考えるほかはじまらない。
(問題はただ一つ――解決策。)
 少年はそろそろ猫をひっぺがしにかかった。猫もけっこうしつこく、なかなか離れない。もしかして、今まであまり人に甘えられなかったんじゃないか……そう思うと少しあわれみが湧いてくる。
 猫をはなし、少年は道を引き返そうとした。猫は、二三歩ついていったが無駄だと分かったらしく、その場にしゃがみこんだ。

「……じゃあね」

 少年はちいさく手を振った。その相手は猫だったけど、おれはそれに振り返した。けして目の合わない偽コミュニケーション。しょうもない自己満足だけど、坂のサラリーマンとよりずっとしあわせだった。やがて少年は手を下ろして、林の奥へと消えていった。

 さて、

「二人きりに、なりましたね?」

 と、猫に話しかけてみる。猫、無反応。毛繕いの体勢に入る。よく見るとけっこう傷があってお世辞にもきれいとは言えなかった。野良猫なんだろう。それもかなりの間。玄人って奴か。玄猫。毛並みは割と白猫だが。

「なあ、おれたち、けっこう似てない?」

 無視。

「野良生活だよ、全く……。聞いてる?」

 毛繕いが終わり落ち着いたところで、ちょっと首元をなでてみた。

 猫、

「フニャーッ!!」

 と滅茶苦茶に飛び上がり、脱兎のごとく逃げ去った。

「……あー」

 何か、ゴメン。いや、でも、人間相手じゃなくてよかった。猫は言いふらさないから放っといてもいい。猫、バツ、と頭の中にチェックマークを入れた。全く、何で人間は何でも言いふらしてしまうのだろう。

 がらんどうになった広場、少年のいたところに何か落ちていた。拾い上げるとそれは一冊の文庫本だった。さっき読んでいた方に違いない。落としていったんだろう。しかし、

『変身』カフカ


 あー……。
 ちょっとノック・アウトされてしまったが、ページをめくる。読んだことはある。読んだ上で、無断使用している。……なんだよ、「ザムザ」って。自嘲する。
 栞のあった89ページを開いた。

――感動と愛情とをもって家の人たちのことを思いかえす。自分が消えてなくならなければなら
ないということにたいする彼自身の意見は、妹の似たような意見よりもひょっとするともっ――

――そして鼻孔からは最後の息がかすかに漏れ流れた。――


 冷徹に未来を暗示するようだ。いっそ明示かも知れない。考えてみると、

虎になった場合(ボツ案):戻れない。
棒になった場合(選外):ポイ捨て。
虫になった場合:死。
透明人間:未読の為不明。


 救いある変身譚はこの世に無いらしい。

 ……とにかく落とし物だから、と、一応名前を探す。名前が分かったところでどうにもならないけど、自己満足的な気休めだ。
 裏の扉の下に、ボールペン字で書かれていた。

八月一日 夏生

はちがつついたち なつうまれ。


「……誕生日?」

 首を捻っても分かるはずがない。本当に、今日は一体何なんだ。やりすぎだ。作意的過ぎやしないか。

 本は元の場所のそばに目立つように置いといた。多分持ち主は取りに戻って来る。さっきの猫が動かさなければいいのだけど。
 そろそろ良い時間かなと思う。ずっと俯瞰していたこの街ももう活気に包まれている。でもいつもより静かだ、と不思議に思う。八月一日、日付……。
 今日、日曜日か。
 日付感覚も狂っていた。苦笑する。曜日なんてろくに気にしていなかった。こういう些細な所から人間らしさが失われていくんだろう。すぐにでも自分が本物の化け物になってしまいそうな気がする。

「ホー、ホケキョッ」

 頭上から久し振りに声を聞いた。藪の中。やっぱり姿は無い。高らかに鳴いていて、何だかとてもたのしそうだった。脱力した笑いに包まれる。声だけの生き物に。

「君も、透明か」
「ケキョケキョケキョケキョ……」

 鳥、バツ印。今の所バツ印しか無い。けれど……いや、単純に事実だ。どうという事は無い。まだ大丈夫。まだ、生きてるんだし。ちょっと危ういけど、まだ自分は人間だ。

 鳴声の中、おれは坂をゆっくりと下った。


引用元
 『変身』
 フランツ・カフカ
 高橋義孝 訳
 新潮文庫


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