Good Morning-4a
こうして夜が明けた。
一体こんなに早いものだっけと少し奇妙に思っている。さっきまであんなに暗かったのに、今はもうこんなに明るい。
僕が見ている目の前で夜は朝になった。僕はことばを失っていた。頭がぼんやり浮いているなか、目だけが眩しさにチカチカしていた。わずかに空腹感、それと、乾いた汗で背中が寒い。薄着で来たことを後悔した。ポケットに手を突っ込んで暖をとろうとして、その中身の硬い違和感に気付いた。それが何であるか今更思い出した。
カフカ。忘れていた。
なぜ持って来たんだっけ。今朝目が合ったからだった。朝日の待ち時間にと持って来たが、実際待ち時間なんてものは無かった。でも持って来たものは今読むべきなのかも知れない。どうせあと三分の一だし、上手くいけば今日中に課題を終わらせることも出来る。柵の内側に適当に腰を下ろした。朝露に少し濡れた。栞をはさんだ89ページ目を開いた。
――「さて」とグレーゴルは考えて、あたりの暗闇を見まわした。――
……。
……。
それから11行で主人公あっけなく死亡。
物語自体はそれから8ページ足らずで終了し、残りのページが何かというと作品と作者についての注。つまり本の四分の一は解説文だった。金返せと言いたい。百円くらいは解説代だったと思う。金返せ。
主人公が死んでも家族は全く無頓着で清々したふうにさえ見えた。男の存在は完全になかったことになっていた。変身の理由とか顛末は何一つ明かされず、ひどい突っ掛かりを覚える。こんなんでいいのか。救いようのなさに僕は呆れる。
とにかく多重の意味で拍子抜けしてしまった。さっきまでの空気のすがすがしさが、今少し苦々しい。
突然足にやわらかいものが触った。
僕はこわばりハッと足下を見た。
ただの猫だった。僕にすりよっていただけだった。
白地に黒ぶちで若い猫ではなさそうだった。尾をたてて僕の靴の上でしきりに体をすりよせていた。人慣れしてるんだなあと思った。猫に乗っかられていて僕は身動きがとれない。どうしたらいいのか分からない。猫とか動物を飼ったことがないというのもあるし、単純に少し苦手意識がある。
猫はときどき僕を見上げて鳴いた。どうしろと言うのだろう。
少しだけ親しみを持って僕は首元をなでた。白い毛はやわらかであたたかく、毛並みが指に気持ちよかった。でもなですぎると気に入らないのかナァと鳴き、その度に僕の指は止まった。おっかなびっくりだった。
体をすり寄せてくる猫の胴に、何か異物が付いているのを発見した。直径10センチの、カサブタのような乾いたガムのような、異質なものが貼り付いていた。それから耳の傷にも気が付いた。少し赤い目にも。清潔で健常な猫ではなかった。一度気付いてしまうと違和感から目を離せなくなり、申し訳ないような一抹の不快感が生まれてきた。でもどうしてかこの猫を嫌いになりたくなかった。理由はどうあれ、猫は僕を好いてくれている。だからカサブタ付いた胴体はあまり見ないことにした。
僕は白い首周りをひかえめになでた。これでいいのか、よくないのか、分からないけど。
……何なんだろう……
ばく然と、ふと、考えてしまう。何に対して何なんだろうと思うのだろう。何なんだ一体。胸の寒さ。
さっきから自分がどんどんズレていくようだ。自分の中の思い浮かぶことばに追いつけない。僕はこんなにロマンチストじゃなかったはずなのに、訳が分からない。だって、そもそも僕は、何でここにいるんだ。……。
考えてもしょうがないのかな。猫のカサブタみたいに、気付かない方がよかった問題なのかもしれない。気付かなければもっと好きになれたのかもしれない。あるいは、気付かないふりをしていれば僕はもっと楽な気持ちでこの光景をたのしめたんだろう。
あの公園についても同じことが言える。もしも誰も本物の怪異に気付かなかったとしたら、僕達はもっとたのしく恐怖を論じあえたに違いない。
ずいぶん日も高くなった。そろそろ家族も起きてくる頃だと思う。外出が家族にばれたら面倒になりそうだ。
少し強引に足をずらして猫をはがした。猫はなごりおしそうに一鳴きしたけど、これ以上かまっていたら僕にノミでも移るかもしれない。
じゃあね。と僕は小さく手を振って猫と別れた。猫は少し追いかけて来たけど、二三歩歩いただけでまたしゃがみこんだ。目やにのついた瞳が僕を見た。
また会えるだろうか。
遠くない未来に会えそうな気がした。一方で永久に出会わないような気もした。どちらともとれない、でも、もしも次に会ったら、またこの猫を好こうと決めた。
僕はちょっと笑い返した。そして崖を足早に下りた。