Good Morning-2b
早々に見失った。戦意も喪失。
丁度交番の前に立っている。ずっとホーホケキョの声は聴こえているが、方角は完全に見失った。公園と言えば、で、あの男のことを思い出す。結局事態がどう収拾ついたのか、おれはあまり把握していない。明るみに出なければ何だっていいのだが、矛盾があると後々面倒くさい。そもそも事態がこんなに広がるとは予想だにしなかった。おれもうかつではあったけれど正直いまだに勝手が分からない。
実は交番まで足を運んだのはこれが最初だった。だからその交番の向かい側に上り坂を発見したのも初めてだった。ゆるやかに蛇行し先が見えず、けっこう長い。暇つぶしには良いかもしれない、と上りはじめた。時間はありあまっている。馬鹿は高い所に上るということばが身にしみる。
傾斜はまあまあにきつく長さもあった。両脇の樹木が葉を広げ右手には団地が並んでいる。やっぱり鳥がうるさいのは、木々が充実しているからだろう。駅前のビル街とは全然違うなと思う。雨上がりのような匂いがする。嫌いじゃない。
ひとりで歩くときはいつも物思いに耽ってしまう。昔からの癖だった。歩行の、単純作業のリズムがそういう気にいざなわせる。たんたんと自分の歩調を聴き続ける。メトロノームを思い浮かべる。
だいたい中腹辺りまで上ったところで、前方から向かってくる人影に気がついた。四十に満たない位の男で、こんな早朝から出勤と思われる。男は眠そうに腕時計を覗いてはあくびした。
ご苦労様だと軽い気持ちで会釈した。男は全く一瞥もせず、ため息をつき歩調を速めた。要するに気付かれなかった。当然と言えば当然の結果だが、その時感じた冷徹なさみしさにはっと息を呑んだ。相手があいさつ返してくれることに期待していたんじゃない。路上ですれ違ったら会釈するのは全く普通のことなのに、それさえお前には不可能だ、と、改めて思い知らされる。その事実の、氷のような冷たさ。今日に限ったことではないからもう珍しくはないけれど、いつまで経っても慣れそうにない。それでもまだ声が残っているだけしあわせだったのかなあと思う。糸はギリギリの所でつながっている。という訳で多少かなしくも続きを上る。それ以上通行人に会うこともなかった。
上りきると駐車場めいたコンクリ敷の空き地に出た。下の公園とかわらない広さだが、そこ以上に何もない。道は笹で茂った雑木林に伸び、更に上へと通じていた。足を進める。再びホーホケキョを聴いた。道はずっと日陰で湿っていたが、けして不快にはならなかった。街の裏手にこんな林があったのかと少々感嘆せざるを得ない。道脇の雑草の具合を見るとほとんど人が通らないようだった。久々の土の感触はたのしかった。鳥はあいかわらずさわがしく、背後をカラスの羽音がかすめて驚いた。
そして頂上へたどり着く。そこは展望台めいた小さな広場だった。
そこには先客がいた。年格好十六七の少年。セレスタと同い年と見える。まさかこんな朝方こんな場所に人がいるとは思っても見なかった。少年は、当然おれには気付かず、ずっと景色を眺めている。けっこうな高さと展望に驚いた。ずいぶんと上ったものだ。
景色の向こう側はずっと平地で、川向こうの別の街とか、さらに向こうには山脈までうっすら見えた。空はもう水色だったけど、昼の青空より淡い色だった。
きれいだ。早起きする価値ある風景だった。素晴らしい隠れ家。少年、センスいいよ、と陰ながら激励を送った。もちろん届かないし、それは構わない。彼がひとりでいるのを邪魔したくはない。
少年から二三歩離れた辺りに立った。足下にはいささか頼りない柵が立っている。足を掛けて靴紐を結ぶのにちょうど良さそうだった。言い換えれば単に危ない。落ちたら死ぬかなと一瞬考えが過ぎったが、すっ転がって全身骨折が関の山だろう。苦しいのは避けたい。だいたい病院にかかれない身なのだから怪我も病気もおそろしい。
少年も何だか白い顔で病弱な印象だった。小柄で顔も細面、と、顔を堂々と観察してみる。こういう図々しさが透明人間の利点だと思っている。おれが黙っている限り相手には永久に認識されない。気付かれないと分かっているからやましさも次第に薄れていく。
東の方が白みはじめる。おれも彼も黙りこくる。同じようなことを思いながら同じ景色を見ている気がする。いや違う、それは、そうだったらいいなあという只のねがい。
結局おれは諦めきれずにいる。今でも願い、あがいている。まるで叶いそうにない。けれども永遠に捨てきれそうにない。そして永遠というのがいつまで続くのか、まるで予想がつかない。いつまで、なんて永遠に知りたくないとも願っている。永遠の中に閉じ込められている。それは箱というより、四方に迫り立つ巨大な壁。かろうじて天窓が開いている。あれが閉まるときが本当のおしまいなんだと思う。おしまいがそんなにかなしいとは思わない。だって今の方が色々かなしい。
気付けば、東のビル街の上空、そこだけが特別明るみを帯びていた。きっとその真下に太陽がある。妙に静まった心地でそれを見据えている。耳に聴くのはさっきから鳥ばかりだった。人は少年とおれしかいない……おれを、人と数えていいのかな?
光は暖色を帯びてふるえている。にわかにビル群の隙間から、光の塊が現れる。
朱い光。
朝日。
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