「何にも言わないんだな」
煎餅をつまむ手を止めて透明人間が語り掛けた。目線が無いために誰を指したのか、彼にははじめ分からなかったが、それが彼であると彼は悟った。
「あんたのこと?」
「おれの事」
「いや言いたいことは山程あるし。まず俺のカップ使わないで欲しいし、うちの煎餅勝手に開けないで欲しいし、」
「そういう事かよ」
「え、だって、他に何が」
「即物的だな」
「別に透明人間ぐらい居てもいいんじゃないの?」
目の前の透明人間は密かに目を細めた。そうとは知らない彼は語る。
「こいつ、天藾は二重人格だし。アークテュルスは電波見えるし。俺の周りにいるのこんなのばっかだから、透明人間とか居てもいいんじゃねーのって」
「雑な区分だなあ」
「だってさあ、いちいち全部考えてったら、キリが無いことばっかりだろ?」
ひらひらと手を振る彼。
「成程ねえ」
表情の無い男は笑った。
「でも、考え続けなきゃ呑まれてしまうよ、コクリ君。他人を疑ってかかれと言っている訳ではない。でも自分の事は疑って信じてやらないと。無感動なのはよくないぜ」
「……なにそれ、説教?」
「愛のムチ」
「本気かよ」と彼は笑う。
「割と本気」と男は笑う。立ち上がり、空になったカップを流しですすいだ。
「二重扉なんだろうね、君」
「何が」
「周りへの門は開いているさ。けれども自分の門は閉じっぱなし。それでいいけど、たまには換気しとけって話。
……という点からおれと君は似ているのだろうね」
「だから、何が」
「博愛精神の秘密主義者なんて面倒だよなって話だよ」
彼の目の前に折り畳まれた一枚の紙が出現する。プリントアウトされたコピー用紙。
「そんな君におれからのスペシャルプレゼントです」
与えられた紙を見て、彼は思わず吹き出した。
気づいたアークテュルスが青ざめた。
じゃことキャベツの酢の物だった。
ザムザ君ひどい! と少年達のブーイングをよそに、そろそろおいとましますと言って透明人間は玄関扉を開けた。彼も、送っていくよと席を立った。構わないよと透明人間。
「ま、紳士が傘を返しに着たら、そのときは是非よろしくってことで……、あとは、」
妙な間の後、パチン! と彼は額に痛みを覚える。大した痛みではないがやっぱり痛い。デコピンかよ、いってぇな、と彼は睨んだが、睨むべき相手の姿は見られない。言われなければ分からない、黙っていればそれは無人の空間だった。そして声だけの犯人の返答。
「哲学しろよ、アンセイコクリ。って、なことからのお言付けでした。
あとその髪の脱色は無理があるんじゃないかな。自分でやったんでしょ。年いったらそのうちハゲるよ。
でもって今度うちの家主が来たらその時はお手柔らかによろしくお願いします、っと……
じゃあ、まあ、そういう事で!」
言うが早いか、タンタンタン、と、階段を下る音が去っていった。
つかみ所無く去っていった。彼は今さっきまでの現象を夢のように回想した。狐につままれたような感覚だ。実際は、透明人間にデコピンをくらったのだが。玄関ドアを閉める。手に残っているのは、酢の物のレシピ。
「なこと、お前、何吹き込んだん?」
「さあ?」
と、なこと少年は笑顔で答えない。覚えてろ、と彼は呟く。
「今日は安かったからキャベツ一玉買ったんだからな、あと酢も十分あるんだからな」
「でも、でも、じゃこ無いでしょ? じゃあ今日はキャベツの酢の物なしだね!」
「そーだな明日買ってこないと」
「ひどい! 黒梨くんの馬鹿! 不良! ハゲ! 全裸!」
「最後の方おかしいだろなこと!」
ぶつぶつと冷蔵庫を開けると、棚に、見覚えのない小さな包みが入っている。十センチ四方ほどの小さな箱で、丁寧にも『粗品』と書かれたのし付きだった。少年らに包みを見せるが、誰も心当たりは無いらしい。開けてもいいか、と彼らは『粗品』を開封した。
中身を見、少年たちは絶望的落胆を見せ、今さっき現れた客人を口々に罵った。彼は一人笑い転げた。全く、いつ仕組んだのだ、と。
それは綺麗にラッピングされた、パック入りのじゃこだった。
prev|next
return / 0219 written by.yodaka