そして手にしていた本を、別の書架に立て掛けた。

「終わりが見えます。終わりまであとどれ程かも分かります。だから、安心出来ますよね」

 そうやって彼は僕を見る。同意を求める眼差しだった。

「本の中の不幸があと何頁で終わる、と、目に見えるだけでも随分幸せではありませんか?」
「ああ、確かに」

 と僕は声を漏らした。先が見えれば確かに安心する、と、とても素直に納得した。

「はじまりを予知出来るのもいいですね。なにがしの不幸がはじまって終わるのを、予め身構えることが出来る」
「すると、」

 彼は少しさえぎるように呟く。

「すると、本には、希望が無いから良いのかも知れません」
「それは……逆説ですか」
「パンドラの箱、かな」
「象徴的ですね」
「空っぽのパンドラの箱ですよ。希望も逃げ出したパンドラボックスです」
「希望」

 何とは無しに復唱する。説明を求めずとも彼は語る。

「開けてはいけないという箱を開けると、神が閉じこめていたありとあらゆる災厄が地上に逃げ出してしまった。少女パンドラがあわてて蓋を閉じると、箱の中には“希望”だけが残された。その希望というのは、未来を見通さない、ということです。
 未来に待ち構える不幸を人間が全て見通していたら、不幸が全て不可避のものだと知ったら、地上はどんなに悲惨で無気力なものになるか。存在する不幸を見通せない、つまり、いつ不幸が訪れるか分からないことは、希望である、と言っているんです」

 諸説ありますけどね、と彼は付け足す。

「ところが本はあらすじがあるから一体何が起こるのか分かる。頁数の限りがあるからそれがいつ終わるのかも分かる。
 希望なんていう不確定でじれたいものよりも、そちらの方が、余程安心出来ませんか?」
「だから、本には希望が無い。空のパンドラボックスである、と」

 そう言うと彼は目を細めた。冷ややかな表情だった。

「僕には、未来なんていう希望無く、ただ終わりがあることが、最後の頁を迎えることが、いちばんののぞみなのです」

 躊躇い無く彼が発した澱みの感情に、否定の出来ない既視感を覚えた。身に覚えがあった。
 品定めするような視線が僕をなぞった。気付けば、彼は執拗に自らの手首をさすり確かめていた。痛むのだろうか。視線に耐えられない僕は、うつむいてそちらの方を見ていた。
 ただ僕は表層では澱みを露わにせずに過ごしてきた。澱みはとても深いところにあった。かきまわさなければ浮かばない。だから僕は澱みには触れず、上澄みだけで生活していた。

「無理しなくてもいいんですよ?」

 不意に微笑で問いつめられ、漣立つのを感じる。

「ここは密室で、僕と君しか存在しないんですよ。何を隠すことも無いじゃないですか。雨が降る日に傘を持ち歩かないなんていう、無頼な過ちを犯している僕達が、破滅的願望を共にしたって、誰が糾弾出来ますか。
 似たり寄ったりだと思いますよ。僕と君。だから、どうか警戒しないで下さい。お話がしたいだけなんです」

 きみのことを。

 かすかに確かにそう呟いたのを、僕は答えない。
 ただ彼の包帯がするりとほどける瞬間を凝視していた。自らほどいたのかもしれない。ガーゼが落ち、まだ乾ききっていない赤褐色が付着していた。存在しない切り傷に手首がうずいた気がした。落とした包帯を拾い上げると、彼は何食わぬ顔で片手に包帯とガーゼを巻き直した。手慣れた様子だが先程よりは不格好だった。他の人に手当されたのだろう。
 巻く動作をする方の手にも実は同様の傷痕が並んでいた。そういう痕跡が彼の身体を刻んでいるらしい。
 軽蔑も賛同も出来なかった。こうであったかもしれない自らの別の未来をかいま見たような気がした。僕だって外傷に走ったかもしれない。
 僕の眼差しに気付いたのか彼はふと目を上げた。傷口にもなお微笑を浮かべる。

「刻みつけることで僕は自分の頁数を知ります。否、頁をめくっています。こうでもしないと終わりが分からないでしょう? 僕ははやく最後の頁に辿り着きたいんです。
 君は、喪服を着て、自分を弔うように見えます。僕は刻むことで終わりを知り、君は既に終わりを見据えている。その深意を知りたいな、と思ったんです。君の思うことが知りたいんです。躊躇わないで下さい。僕は、君のお話が聴きたいんだ」

 あくまでも彼は、僕だったかもしれない傷を持つ彼は、きっと僕にシンパシーを覚えている。
 しかし彼は僕が選ばなかった可能性にとても近い存在だけど、僕と貴方は根本から異なる人間なのだろう。
 (貴方とは違って、僕は異常なのだから。)

「貴方が得られるものはありません」

 僕には、雨が降っている。

「貴方には分からないものでしょう。何故なら僕は僕を理解出来ない。
 僕に理解出来ないものが他人に理解される筈が無いのです。絶望ではありません。事実です。事実として、僕はどう語ればいいのか分からない。その結果僕が時に澱むこともある。その時は傷を重ねて、貴方の言うように、頁をめくりたくもなる。
 しかしいくら頁をめくったところで……仮に最後の頁に辿り着いたとしても、理由が明かされるとは期待していません。
 希望は無いと思いますが、故意に終わらせる努力をするのも僕にとっては徒労です。何もせずとも一日は終わります。気付けば日が落ちている……」
「それが嫌なんです。
 頁をめくるのが僕ではなくて、他の得体の知れない誰かであることが。選べないじゃないですか。どんなに僕が急いでいても、この場に留まりたくても、誰かが勝手に駒を進めてしまう。こんな風に雨なんか降らせて……立派な幽閉ですよ」
「降り止みませんね」

 空調を排斥し耳を澄ますと、窓の向こうに、終わりそうにない雨を感じた。

「このまま降り続いて氾濫してしまえば……」

 まるで自分のものではないようなぼんやりとした発言だった。喋り疲れると午後と雨天の眠気が僕に同時に押し寄せた。足下から蝕むような湿度となまぬるい空調がまどろみを誘う。ツンと鼻につく古紙と雨の匂い、BGMにもならない空調……。

「氾濫したら?」

 ……希望も絶望も意味も理由もなく、僕はそこに浮かんでいたい。

 そう発声しかけた僕の声は目の前の彼には届かなかった。覚えのない第三者の声に消された。

「――てめえ、帰りが遅い!」

 若い男が書架の合間に立っていた。


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return / 0208 written by.yodaka
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