レシート

「自販機」
「違う」
「透明人間」
「そうだね」
「ポタージュ」
「やめてくれ」
「本」
「由来はね」
「この本」
「そう」
「虫?」
「人間だよ」
「カフカ」
「惜しいなあ」
「フェリーツェ」
「女だ」
「ゲオルク」
「それは別のお話」
「ダイ、ヴァーワンド……ラング」
「ディー、フェアヴァントルング」
「ドイツ人なのか」
「違う」
「ユダヤ人か」
「違うよ」
「グレー、テ」
「それは女の子」
「グレーゴル」
「もう一息」

 野棚さんはようやく、第一頁目を開き確認し、

「ザムザ」

 やっと辿り着いた。

「本当に覚えられないんだね」

 裏表紙のあらすじにも書いてあるよと教えると、野棚さんは「ああ」と声を漏らしただけで、特別感嘆するでもなく、ふたたび頁の中頃に視線を落とした。
 野棚さんは名前を覚えることが非常に苦手なのだという。何度名前を訊いても思い出せないと。苦手と言うが、ここまで徹底しているといっそすがすがしいように思えるし、大まじめに名前を思い出せないでいる野棚さんにおれはどこか尊敬のような好意を抱いている。

「悪意がある訳じゃないんだ。ふざけている訳でもない。ただ、出てこないだけで。
 ええと、ザムザ。
 私が読んでいるこの辺りになると語りが『グレーゴルは』だから、父親のことも『ザムザ氏』ではなく『父親』だから、出てこなかった」

 後ろめたげな台詞でありながらも、全然こちらを見ず、読書の姿勢を崩さないところもなおいい。

 この人が寂れた公園の自販機のボタンを連打していて、丁度ポケットにバラの十円玉があって、欲しがっていたものがポタージュで、自販機に向き合う横顔があまりに真剣だったから、十円だけポタージュを奢った。この人は腰を抜かしてキャーキャー言う騒がしい連中ではないと信頼した上だった。結果、思いのほか同調した。互いに度々公園を訪れた。野棚さんはベンチに座ってずっと本を読む。おれは隣に座って会話を交わす。おれは、たまたま用があってここを訪ねているに過ぎない。
 そしたら最近野棚さんのお友達が加わった。野棚さんが連れてきた。二人。男子生徒。一人は理屈家というか詭弁論者のクレバーで、悲鳴こそあげずとも散々おれのことを疑って掛かったから有り難くコーヒーを奢ってもらった。もう一人は感覚的に生きていそうなぽわぽわ系。彼ら曰く、彼らは友達で、おれも友達というラベルの中にカテゴライズされたというのが前回までのあらすじ。

 で、

「コーヒーくれた方の彼、名前、何だっけ」

 と、訊いてみると、野棚さんからの返事は遅く、

「……変態と呼べば片づくと思う」
「いや、そうだけどさ……そうだけど? いや、そうなんだよ。そうじゃなくて、忘れちゃったんだろ」
「忘れたというより出てこないんだ。言葉が。名前が。彼奴であることは思い出せる」

 さしてシリアスに見えないところが面白い。

「変態と呼べばだいたいあのコーヒーばかり飲んでいる変態糞野郎のことを差すから私達にとって問題ではないんだ」
「あいつ変態糞野郎なのか」
「変態糞野郎だ」
「変態糞野郎で覚えちゃうよ」
「変態糞野郎で構わない。私が保証する」
「それは、保証すべきではないよ」
「いいよ。公認変態糞野郎なのだから」

 おれも野棚さんも彼(変態糞野郎)の名前を完全に諦めた。

「彼(変態糞野郎)っていうのはカテゴライズで、おれ(透明人間)と呼ぶのとやっていることは変わらない」
「私(女子高生)」
「でも女子高生は沢山いるから、野棚さんって呼ばなきゃ困る時が来る。変態糞野郎だって世の中に沢山いるだろう」

 かつてぶちのめした変態糞野郎を思い出しほんの少しだけ虫酸が走った。

「透明人間、とカテゴリがあるのなら、じゃあ、透明人間は沢山いるのか」

 野棚さんは尋ねるというより自問の口調だった。彼女の読んでいるそれは透明人間モノではない。

「いるかも知れない」とおれは思う。

「見えないんだよ。人に見えないのが透明人間だから、おれにも透明人間が見えないのかも知れない。
 あそこの隅で透明人間が君とおれのことを伺っているかも知れない。向こうに居るおれの喩え話の透明人間はおれのことが見えるのかも知れない。けれども彼もしくは彼女は喉が潰れていて声が出ないのかも知れない。足が不自由かも知れない。何度もすれ違っているのだけど互いに透明だから気付かない。とか言い始めるとキリがないけど。
 だから“おれ(透明人間)”とカテゴライズするのはいつか行き詰まるかも知れない」

 野棚さんは本を開いたままだった。84、85頁に見えた一行、
――“これ”はお父さんとお母さんを殺しちゃうわ――

「じゃあ、やはり透明人間ではなく、ザムザと呼ばなければならない」
「え? でも別に、不本意な呼び名じゃなければ何でもいいよ。呼びやすいように」
「ザムザでいい。そう覚えたから」

 一息置いて、

「それに、私の場合、本に書かれたことの方が覚えられるし、私は暫く『変身』を読むつもりだから思い出しやすい」

 そういう淡白さに落ち着くことが好ましい。
 一度好意を抱くと、どうしても過大評価してしまう癖があるが。

「ね、ところでもう一人の方は?」
「天藾?」
「下の名前」
「なこと。天藾なこと」
「そっちは、覚えられるんだ」

 頷き、本を閉じた。

「何故だろう。
 覚えられたんだ。
 自然にするりと覚えられたし、それだけは忘れることが無い」

 本を手に立ち上がると野棚さんはぐっと伸びをした。

「ザムザ」

 野棚さんが振り返り見る。

「なに」

 目が合った気がした。

「お願いがあるのだが。
 喉が乾いてしまって。あれば、120円を」
「持ってるよ。ポタージュですか、お嬢さん」

 おれもベンチを立った。二人で自販機へ、なんとなく野棚さんの歩調に合わせて歩いた。

「悪いな」
「べつに?」
「後で返すよ」
「いいよ、これぐらい」
「変態糞野郎にツケておくよ」
「……じゃ、そうしといて」

 ちょっと笑うと、

「ああ」

 ちょっと笑う。

「領収書は変態糞野郎様宛でいいのかな」
「受け取らないだろうな」
「受け取ったら彼奴の尊厳どうなっちゃうんだよな」

 120円を投入して下段の隅のポタージュのボタンをピッと押すと、ガコン、と散々聞きなれた低音で缶が落ちてくる。この缶は飲み口の広いデザインでコーンが底に溜まるイライラが無く、野棚さんのお気に入りで。
 取り出し口から熱い缶を、「どうぞ」と彼女に渡す。缶のホットドリンクはすぐに冷めてしまうからおれは本当はこれがあまり好きではなかった。値段に対して熱量があっけないのだ。すぐに冷えてしまって、取り留めておくことが出来ない。

「ありがとう」と受け取って、未だに野棚さんは言う。

「やっぱり、自販機だ」


return / 0617 written by.yodaka
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