僕らは今度こそ、希望の虚しい氾濫の中で溺死しそうです。
『死者の奢り』大江 健三郎
土曜日の午後、良い古書店があると聞き、ふらりとその店を訪れた。M駅から程近い住宅地の中だった。静かな場所だった。四階建てという、住宅一軒以上の造りの店舗の中は、いくつかの小部屋で仕切られて、それぞれの部屋はそれぞれの分野の書籍で埋め尽くされている。時に書架を溢れて整理しきれない本が積まれて山になっていた。ひとによっては宝の山だろう。
少し古い写真誌が安くなっていたから買った。しかし出口に立つと、外はいつの間に雨だった。店内の空調で雨音は聴こえなかった。傘は無いし雨よけになるような鞄も無い。今買った本を濡らすのも癪だった。コートの内に隠したとしても、レインコートではないのだから、どう頑張っても本は濡れる。購入自体を後悔したが、返品を申し出るのも馬鹿らしい。だから僕は立ちあぐねていた。長雨になりそうな空だった。
人の気配がした気がして、振り返ろうとするより早く、
「お葬式があったんですか?」
と、ゆるやかで若い男声が聴こえた。
同い年くらいの男がいた。背が高くて痩身で、古紙色のやわらかいシャツにジャケットを羽織っただけの、この時期にしては気がかりな薄着の格好で、うっすらと人の好い笑みを浮かべていた。
僕はあいもかわらず黒スーツと黒タイでその上に長いコートを着ている。全身黒の葬式的装いであることは承知している。
「僕のお葬式ではありません」
自分でも冷たい声だと思った。この、目の前の彼に悪意を抱いている訳ではないから、これは雨のせいだろう。
「喪に伏しているんですか?」
「喪服という訳ではないんです」
ふうん、と彼はなんともいえない風だった。
彼もまた外の雨を見上げて言った。
「雨、止みませんねえ」
「通り雨だといいのですが」
「傘、持ってないんですか」
「無いんです」
「ああ、僕も無いんですよ」
と、彼はまた微笑を見せた。仲間であると思った。彼は一本の傘も無い傘立てを指さした。
「ほら、雨の日は、傘で人数が分かるでしょう。ここには傘が0本、僕達のほかには誰もいないようです」
「密室ですね」
密室殺人という語が思い浮かんだのは、さっき通った書架のせいだろう。ミステリーはそんなに読まない。微笑の彼が問いかける。
「奥に行きませんか。どうせ暫く止みませんよ。僕達ふたりきりですし、折角だから、少しお話しませんか」
僕は小さな詮索を入れたくなった。僕なりの心理テストのようなものだが、
「ふたりきりじゃ、ないかもしれませんよ」
最近の持論である。彼は、少し考えて、
「ああ、店員さんですね」
もっともな答えだと思った。
彼に連れられて店の奥へと歩んだ。一階は、絵本、漫画、なぜか人形のディスプレイ。彼は慣れた様子で書棚の間の細い廊下を行く。なぜだか、彼が読書家であると確信した。
「ここにはよくいらっしゃるのですか」
背中を見ながら尋ねた。男の割に細い身体だった。しかし僕も大差ないように思う。背丈も体格も近いのかもしれない。
「よく来るかと言えば、まあ、よく来ます」
そういう彼も僕と同じような紙袋を手にしていた。
「何を買いましたか」
丁度階段で彼は振り返り答えた。
「本です」
紙袋を持つその手首に包帯が巻かれているのを見た。
「君は、何を買いましたか」
「……本です」
「ああ、たしかに、そうでしたね」
「本屋ですから」
「そうですよねえ」
そういうことを話しながら、気付けば三階の文庫の書架に立っていた。
無人の三階は静まり返り、空調の風がなまぬるく、僕の冷えた指先をあたためた。雨は機械音に上塗りされて注意しないと聴こえない。彼は並んだ背表紙を指でなぞった。白く細い指先だった。本はみな日に焼けている。
「困った雨ですね」
本の並びに目を伏せたままその人が言った。
「古書に湿気は大敵ですよ。紙が濡れる。黴が生える。壊死してしまいます。ただでさえここに在る書籍は紙魚と太陽に冒されているというのに」
「脆弱なものですね」
「本は、お嫌いですか?」
「そういう訳では無いと思いますけど」、特別に読書家という訳でもない。読書家(と僕が決めつけている)彼に対して失礼な返答だったかもしれない。(今更、行儀の良い人間に成れるとも思えないけど)
「うちにはたくさん置いてあるのですが」
彼は控えめにクスクスと笑いながら語る。
「そうですねえ……本という厚みに形成された紙が欲しいのかもしれません。読んだ量を知りたいし、思い立った時に手に取りたいから、書籍という固体で取り留めておきたいのかもしれません」
そうして、適当な一冊を指で引きずり出した。名前は聞いたことがあるような日本の作家だった。左手に持ち、右手で頁をめくる。
「重みが分かります。量も分かります。年季も目に見えますし。何より……」
彼は頁をさばくと、一言、
「終わりが見えます」
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return / 0208 written by.yodaka