この世界で、俺が話せる言語はあまり多くない。
幼少の頃より前世の記憶が色濃く残っているのが不味かったのか、俺は日本語もすっかり忘れて全く話せないがこちらの公用語も最低限しか話せないというなんとも残念な感じに育っていた。つらい。
何がつらいって頭の中ではちゃんと色んな事を考えているのにそれを口に出せないのがつらい。
『おはようございます
おやすみなさい
ありがとうございます
ごめんなさい
もうしわけありません
ゆるしてください
おねがいします
わかりません
痛い
恐い
寒い
苦しい
つらい
悲しい
お腹がすきました
好き
大好き
その他名詞』
ざっと俺が話せる言葉を上げるとこれくらいだ。
大半を占めるネガティブワードにこの世界の非情さが表れている。まあ二十歳の男のボキャブラリーとしては少ない方だろうがこれくらいあれば問題なく生きていける。全然大丈夫だ。
俺は首輪に付けられた鎖をどうにか取ろうと四苦八苦していた。もう日が昇ってしまっている。さっさと炭坑に戻って石を運ばないとまた奴隷長に怒られて百叩きに処せられてしまう。俺は一回しかあれを喰らったことはないが死ぬかと思った。いや、多分一回くらいは死んだと思う。それにしてもこの鎖、呆れるくらい頑固である。長年にわたる奴隷業で培われた俺の握力腕力脚力その他諸々にも屈しないとは、こやつ…できる。鎖をぐいぐい引っ張り過ぎたせいで掌の皮がむけてしまった。それに金属臭い。
「リル。」
どうしようかと途方に暮れていると扉が開いて俺を呼ぶ声がした。顔を上げるとそこにはラビスがいた。ラビスは俺に近づいてくると真っ赤にかぶれてしまった両手を見て顔を顰めた。
「どうしたのだ?この手は。」
俺はたっぷり三十秒かかってその言葉を理解した。
倒置法である。まったく、俺がそのように難しい言葉が苦手だと知っていての行いならばこの男、鬼である。俺はひんやりと冷たい男の手に痛くない方の手の面をじんわりと押しつけながら言った。
「痛いです。」
「擦ったのか?」
頷く。大体この首輪が悪いのだ!知らぬうちに俺につけられていて、しかもついている鎖がごつごつしていて外そうとすると手の皮がむける。お陰で今日の仕事に遅刻してしまった。これで俺が怒られて死んだらどうしてくれるのだ!
ラビスは心底怒っている俺を両手で抱きあげると鎖を壁から外して牢のような部屋から出た。
「リル、此処はなぁ、我が城ぞ。」
うん?なんだ?リルしか聞き取れなかったぞ。この男、俺に食べ物を恵んでくれたり風呂に入れてくれたりするのは良いのだが話す言葉が難しくて困る。もう少し分かりやすいように話してくれればいいものを。ラビスは目が痛くなるくらいに煌びやかな部屋に俺を連れていくと、中央の大きな椅子に腰かけ、俺をその隣に座らせた。テーブルの上にはたくさんの食べ物があった。
「朝食だ。腹が減っただろう?喰え。」
い、いいのか?
俺は迷った。奴隷の俺がこんなに美味しそうなものを多分すごくお金持ちで身分の高いラビスと同じ時間に同じ場所で食べるなんてしていいのだろうか?
ラビスは頭を抱える俺を見ると俺の両手を包み込み、口を開いた。
「飯を食べる前はこうするのだ。――豊かな大地の恵みよ、我らが今日も生きられる事に感謝します。」
「わ、わかりません、」
「そうさな…ありがとう、でよい。言ってみよ。」
「あ、ありがとうございます…?」
ラビスが満足そうに笑い、千切ったパンを俺の口に放り込む。び、美味なり!遠い昔に失った我らが地球の味がする!俺はもう今すぐ死んでも良いくらいに感動した。こんなに美味しくって普通な物を食べたのは死ぬほど久しぶりだった。
そのまま腹がいっぱいになるまで飯にがっついた俺をラビスは膝の上に乗せ嬉しそうに見つめた。俺がようやく食べ終わると、ラビスは俺の口元を布巾で拭いながら言った。
「リル、私の可愛い奴隷。よく聞け。私はそなたを我がものにするために大陸と協定を結んだ。どういうことかわかるか?」
さっぱりわからん。俺は言ってもいいものかどうか迷いながら、そう言えばこの男に殴られた事は一回もなかった事を思い出し正直に首を振った。ラビスは少し難しい顔をして、もう一度口を開く。
「つまりのう、…海の覇者である私が、陸の覇者である現王と手を繋いだということだ。」
「う、うみのはしゃ?」
「―――そなたは知らぬでよい。さあ、これをお食べ。食後のデザートだ。」
こ、これはアイスクリームではないか!
ひ、久しぶりだなあ!
実に二十年ぶりの再会である。
一口一口味わうようにして食べながら俺はラビスに一生ついていこうと決めた。
とりあえず目下のところの悩みは明日も食べられるようにこのアイスクリームをとっておきたいのだが冷蔵庫はどこにあるのだろうか?