嘘ではない。全部本当の話だ。
俺は前世で相当嫌な女だった。
誉れある大国の主へと嫁いだとある由緒正しき小国の姫。それが『俺』だった。
長く艶々とした、手入れを欠かしたことがないような黒髪。凡庸ながらも頬はあからみ、唇は些かぽってりと下の方がやや重力に負け垂れ下がった、健康的な容貌の少女。
そんな『俺』が大国へと嫁いだのは14の時だった。
正直、俺はその後の記憶を余り思い出したくはない。俗に言う黒歴史である。思い出したくない過去。ブラックヒストリー。富士山の大噴火に対する江戸市民の心持ちにも似通う。あの記憶は繰り返すべからずとレッテルを貼って教訓にするべきものである。
前世での俺は一言で言うと『良い子』だ。嫌味っぽく言うなら『イエスマン』だ。
はい。はい。はい。はい。わかりました。宜しゅうございますよ。はい。御気になさらず。
その結果頑張り過ぎてぱたんきゅー。
馬鹿か。
声を大にしていってやりたい。出来る事なら俺の尻を俺が叩いてやりたい。
大丈夫です大丈夫ですとまるで何かの呪文か暗記事項のように繰り返しまくる前世の俺は恐ろしく良い子で聞きわけの良い外面を持ちながら恐ろしく良い子で聞きわけの良い内面まで持っていた。
こんなのが本当にいたら息が詰まる。自己嫌悪で死にたくなる。
間違いなく俺の回りにいて欲しくない人間ナンバーワンだ。俺と俺が同じ時系列に存在しえない運命で本当に良かった。
元旦那―――確か、今生での名は武智といったか、その男にふるわれた傷は、あの夜半から三日ほどたち、ようやくじくじくとした痛みだけで済むほどには回復した。…回復である。けっして言葉を間違えているということではない。少なくとも激痛で夜も眠れず半刻に一回嘔吐を催し便所に駆け込むという事はなくなった。れっきとした回復である。むしろ驚異の治癒力だ。
武智、宝城、暮宮、玖珂、皆藤。あいつら、今度会ったら全員殺してやる。俺は口元が赤黒く変色し可哀想なほどに不細工になった鏡の中の自分を見ながらぎりぎりと歯軋りした。
ああ、忌々しい。ここぞとばかりに俺を嬲り倒す下種どもめ。殺してやる―――と考えたところでぽーんと間抜けな擬音がしそうなほどに唐突に脳裏に武智の顔が浮かんだ。
畜生。あの女。隣にいたなら顔面が十二角形になるまで殴り続けてやるのに。
大体女々しいのだ。己が死んでから一体何百年たったと思っている。仮に死なず生きていたとしてもお前もあの男もとっくにミイラだぞ。千年の恋も冷める。たった数十年の恋はもっと早く冷める。
恋じゃないわ、愛ですの。
囁くような声が聞こえ、鏡の中に女が現れ俺の頬にキスをする。俺はかっとなって鏡を殴りつけた。
指の付け根が赤く腫れた。ガラスは割れなかったし罅も入らなかった。
女はもちろん最初からいなかった。畜生。寝不足だ。
「玉緒。」
「環です。武智会長。」
誰が玉緒か。あの馬鹿女と一緒にするな。
俺がそう答え心底馬鹿にした目で嘲ってやると武智は妙にしんみりとした顔で、けれどどこか疑わしそうに俺を見た。
ちなみに今は二限目が始まったばかり。どうせ教室に行っても蛆虫のごとく眉を顰められるだけの俺は一人寂しく男子トイレに籠っていたのだがこの男あろうことか天井と個室の敷居の間から俺が入っていたトイレの個室に侵入してきたのだ。恐ろしい。末代まで語り継げる恐ろしさ。
扉を背にして両腕を身体の後ろに回した俺はどうにかこうにか鍵を開けようと頑張っているのだがなかなか開かない。
「玉緒。」
武智がもう一度あの女の名前を紡ぐ。まるで俺を呼ぶかのように俺を見つめて。出来る事ならその整ったお顔に口内のありとあらゆる唾液という唾液をぶっかけてやりたいが自重した。武智死ね。
「玉緒。」
「環です。武智会ちょ、」
「玉緒。玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒玉緒。…たまお。」
ぞっとした。
がちゃり、と鍵のあく音がする。背中にかけた身体の重みで僅かに扉が開き光が個室に差し込む。照らされた男の顔に浮かんだ、否定のしようのない――――――――悦楽。
「玉緒―――ああ、俺のたった一人の后。」
やっと見つけた。
そう言って男は、
俺を殴り嬲ったその手で陶器を扱うように優しく、
(お慕いしておりますわ。―――永久に。幾千年も。ずっと…。)
恐い。止めろ。止めてくれ!
俺は玉緒じゃない。――環、なのに。