いいえ。いいえ。わたくしは決して口を割りませぬ。
殿下が何処に行ったかなど、端からわたくしは知らぬのですから。
殿下は逃げたのです。城も、妻も、倅も捨てて身一つでお逃げになったのです。
何処に?いいえ、知りませぬ、知りませぬ。知らぬと言っているでしょう!
どうせわたくしよりも見目麗しく歳若い女子の所へと逃げ込んだのでしょうぞ。ええ、ええ、そうでございます。そうでございます。
ああ、忍びの方。お可哀想な忍びの方。
わたくしのような強情な女を見つけてしまったばかりに、貴方は殿下を見つけられないのです。
殴られても、蹴られても、私は決して口を割りませぬ。可哀想なお方。すぐに殿下を探しに行けば、殿下はすぐにお捕まりになられたでしょうに。
わたくしがすぐに籠絡できると勘違いなされたばかりに、貴方は殿下をもう見つけられないのですから。
ああ、駄目ですわ。そのような脅し、ききません。
胎の中のややごは、母を許してくれました。そうして母は、ややごが汚されることは望みませぬ。
ああ、では、ご機嫌麗しゅう、忍びの方。
いつかあのお方にお会いになられたら、貴方を愛した馬鹿な女が、もうずうっと昔に一人死にましたとお伝えくださいませ。

そうして舌を突き出して、


俄かには信じられない話だが、俺の前世は冒頭をもって締めくくられる。想像するだに痛々しい。むしろ忌々しい。幼少期からこの記憶を所持していた俺が発狂しなかったのがもはや奇跡だ。
ああ、実際に前世の記憶をもっていない人には非常に分かりにくいと思うからとりあえずシステムを説明しておくが、基本的に前世:俺と現世:俺は意識が混濁したりすることはない。つまり完全に前世:なんかめっちゃ良く知ってる他人、現世:俺、という感じだ。まあたまに前世の俺めっちゃ可哀想!不憫すぎる!旦那死ね!とか思うことはあるが、そう言うのは例えるならばドラマの主人公に感情移入しちゃったとかそういう類の感情だ。ちなみに俺以外に前世を知りつつ生まれてきた人間を俺は知らない。
―――そう、知らない。
知らないのだ。もちろん、目の前で偉そうにふんぞり返って俺に殴るけるの暴行を与えているこの前世での俺の旦那にそっくりな男も、勿論前世の記憶なんか持って生まれちゃいない。
「うぜえんだよテメエは!輝に近寄って媚び売って、」
ああ、煩い。馬鹿みたいだ。つうか、唾飛んでるっつうの。相も変わらずお綺麗な顔が台無しだ。
輝。皆藤輝は丁度一ヵ月半前にこの学園に転校してきた一人の生徒だ。スチールウールのようなぼさぼさした髪に時代錯誤な瓶底眼鏡。一昔前の売れないお笑い芸人をどこか彷彿とさせるその男は、まるで陳腐なギャルげーの主人公のように学園の名だたる『人気者』たちを落としっていった。恋に。一応言っておくがギャグではない。まあ、つまるところその『人気者』の中に、元旦那が入っていたと、そういう訳だ。
がつん、とひときわ強くこめかみ辺りを殴られ、目の前で極彩色に色が混じり吐き気がこみ上げる。
ああ、むかつく。
なんで俺が。
ただ皆藤の同室者だったってだけで。
なんで、俺が。
疑問符ばかりが浮かんで、その間にも元旦那は使い古された雑巾のように床にくたばる俺の体に更なる加虐を強いる。ああ、痛い。むかつく。腹に一発けりが入れられ、俺の口から胃酸が飛び出る。意地悪く笑ったその不細工な元旦那の顔に、きれた。

ああ、今までは、前世でのよしみで、記憶の中だけとはいえど確かに感じた愛しさに、許してやっていたけれど、此処までされる謂れはない。

びりびりと電流が走ったように痛む右腕を無理やりに動かし、男へと伸ばす。
男の眉が訝しげに寄せられた。ゆっくりと、しかし確実に相手に伝わるように言葉を紡ぐ。

「お、まえ、さま。」

見開かれる相貌。ああ、瞳の中の虹彩は、あの頃と少しも変わらぬまま。口元が自然に笑みを象る。

「忍びのお方は、ちゃんと伝えてくれましたかえ…?」
「な、なにを、」

男が後ずさる。その音を聞きながら、俺は、俺はあの女が―――
泣きたくもないのに瞳に涙の膜が張られる。やめろ、違う。そんな事が言いたいんじゃない。

「ご無事で、ようございました、殿下。ご無事で、ほんに良う御座いました…!」




男が茫然と立ちすくみ、急速に俺の意識が遠のく。ああ、やらかしやがった。今の今まで何もしなかったくせに、この女、一瞬だけとはいえ、俺の体を乗っ取りやがった。ああ、畜生。糞ったれが。

「玉、緒―――?」

呼ばれた名前に、女が頬を染めてはにかんだ笑みを浮かべた。

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