▼ハレルヤきみが嫌いです。



例えば俺が唐突にあの人に口づけたとして、あの人はきっと目を瞬かせて俺の行動に首を傾げ、そうして仕方がないとでもいうふうに笑うのだろう。

笑顔が嫌いなわけではない。
優しくしたくないわけではない。

何が原因だったのかといえば、それは一重に注がれすぎた愛情だった。

兄は酷く馬鹿な人だった。
そのくせ一人ぼっちで立つ人だった。
いいや、馬鹿だから、一人で立つことしか知らず、誰かと共に立つ事を覚えられなかったのだ。

両親は向上心と虚栄心の塊のような人たちだった。
そのくせ色んなものに恵まれて、諦める事を知らなかった。
何故あの人は、こんな家庭に生まれてしまったのだろうか。兄のことを考えるたびに、俺はそう思う。
凡庸な容姿。引っ込み思案な性格。凡庸な才能。優秀な弟。
どれもが彼を責め立てる為の要素だった。兄が何か失敗をするたびに母はヒステリックに喚き散らし、そのくせ俺が同じ失敗をしても笑って許す。兄が何かを強請ろうとするたび父は吝嗇な言葉で彼を苛め、そのくせ俺が同じものを強請ると笑って与えた。その度兄は何かを納得したかのような表情で、そうして同じ失敗は二度と起こさなかった。

両親が死んだのは、兄が中学に入学したばかりの時だ。
兄は泣いた。俺は泣かなかった。愛されていたはずの俺はただの一滴も涙を流さず、疎まれていた兄は身を切られるような声で泣いた。
この世の全ての悲しみをたった一人で背負ってしまったみたいに、兄は声を枯らしながら泣いていた。

兄と俺は、父方の祖父母に引き取られた。
そこでも兄の境遇は何も変わらなかった。兄も変わろうとはしなかった。
何も変わらないまま、時間だけが過ぎた。祖父母は、兄が中学を卒業すると同時に彼を家から追い出した。最低限の金だけをもたせ、他には何も与えずに。兄は冷たい夜の中をたった一人で走っていった。俺はそれを追うことはしなかった。


「お願いします。うみを俺に下さい。」
それから一年後。兄はそういって祖父母に頭を下げた。玄関先の硬質なアスファルトにざりざりと額を擦りつけながら、馬鹿みたいな大声でそう叫んだ。激怒する祖父母に水を掛けられても頭を踏みつけられても、泣きも怒りもせずに頼み込んだ。
お願いします。お願いします。お願いします。うみを俺にください。うみを俺にください。
繰り返される懇願に、俺は初めてあの人の手を取った。

最初は思った。どうせ兄は俺を甚振るために手元に置きたかったのだろうと。自分に注がれる分の愛情を横からかっさらった俺に、憂さ晴らしをしたいのだろうと。それはあまりにも理不尽で汚い事だと思ったけれど、もし俺が同じ立場に置かれたとしたら、きっと同じ行動をとるだろうと思い、許容した。
四畳半のボロ臭いアパート。歩くたびにギシギシと軋むその床板の上で、兄ははらりと俺に向かい涙を流した。
「兄さん、」
「ごめん。ごめんな、ごめんな。うみ、ごめん。」
「…兄さん。」
「守れなくて、ごめん。うみにだけ、全部背負わせてごめん。ごめん、うみ。」
(期待が重かった。)
(このくらい簡単にできるだろうという周囲の目が痛かった。)
(愛情の裏側に見せる打算が吐き気がするほど嫌いだった)
(歪な食卓で食べる食事は不味かった)
(兄への失望の裏返しに上がる俺への期待で、身体が潰れそうだった。)
「弱い兄貴で、ごめん。うみ。でも、大好き。」

―――良い子だと言われた事はあっても、愛を囁かれたことなど、一度もなかった。

兄さん。俺達は、なんて冷たい家に生まれてしまったんだろう。
二人ともが同じだけの愛情を注いでもらえる家に、そんな家に、そんな人たちの元に生まれられれば
そんな、幸せすぎるほどに幸せな家に、生まれていられれば。

小さな木製のテーブルに、やっと上げられた頭をまた擦りつけている兄を見て、俺は。

俺は。

触れる手と手。交わる体温。間に挟まれたテーブル。俺は片膝をそれに乗せて兄の胸に顔を埋めた。兄より5センチメートルも大きな俺が、兄の体に縋りつく。兄はその透明な涙だけをはらはらと流し、僕を見た。俺が兄を見つめたのは、十五年も生きてきたっていうのに、これが初めてだった。兄の視線を、俺はいつも背中で感じていたくせに、俺が振り向いたのは、これが初めてだった。
ああ、きっと。この人は、この人は今までずっと、振り向かないままの背中を見続けていたんだ。
抱きしめ方なんて、俺も兄も知らなかった。だからただ我武者羅にしがみついた。
柔らかい布団も、一流のシェフが作った料理もなかったけれど、兄が住むこの家を出たいとは思わなかった。

兄さん。唇が象る。
兄さん。好きだよ。大好きだ。兄さん。好きだよ。きっと、誰よりも。

世界は理不尽で出来ている。
本当に好きな人は決して振り向いてはくれないし、背伸びをして無理やりに手に入れても心ばかりが壊れるだけだ。
大切にしたくないわけではない。
あの人の笑顔に苛立つわけでもない。
あえて理由をあげるとすれば、俺はきっとあの人に愛されすぎたのだ。
十のうちの九をもらった。あと一つがどうしても手に入らない。一番欲しいその一が指の隙間から零れ落ちていく。

神様。神様。神様。
俺が持ってる他の物は何でもあげるから。
この顔が潰されても、足を折られても、爪を全部剥がされたって良い。
だから俺にあの人と生きる未来をちょうだいよ。

お願いだよ。あんまり遠くに走って行かないでよ、兄さん。お願いだから俺の手の届くところにいてよ。貴方の背中も、心臓も、手も足も目も口も鼻も、俺の知らないものになってしまわないで。もう少しだよ兄さん。もう少しできっと貴方に追いつくから。だからそれまで待っててよ、兄さん。


手が届かなくなってしまったあの人に気づき、俺は静かに俯いた。


(愛し合いたいなんて、思っていなかった。ただ隣に立ちたいと願っていただけなのに、それさえも叶わない。ああ、神様。どうか俺から俺の兄さんを盗らないで。俺を守ってくれるたった一人の人を、奪ってしまわないで。)


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