―― そなたが、新しい側室か。
―― …はい。皇太子さま。
恋を、したのです。
「アン、何をしているの?」
掛けられた声に、銀髪を後ろで結った少女はゆっくりと振り向く。アメジストが黒髪の少年を捉え、ゆらりと微笑む。
「神子様。」
「良い天気だね。風が気持ちいい。」
「はい。散策日和ですわ。」
アンと呼ばれた少女が足早に少年―――唐島望に駆け寄り、その男性にしては線の細い手を取る。足元が安定していませんから、転ばないように気を付けてくださいませ。木漏れ日にとけるような優しげな声が多分に笑いをふくんで望に言う。その柔らかい微笑に望は表情を緩めた。
「アン、何をしていたの?」
繰り返された質問にアンは虚を疲れた表情で、前掛けのエプロンにためられた桃色の花を一輪摘み上げる。
「世界樹様の、御世話ですわ。」
「え?」
望の目が大きく開かれる。世界樹、この国で最も高貴とされるその存在。アンは望の胸の内を知ってか知らずか、堂々たる大きさで聳え立つ一本の大木に優しげに眼をやった。
「亡くなった祖母が、教えてくれたのです。世界樹様は、この花が大層お好きですから、その年に一番に咲いた花を、こうして根元に撒いてやるのだと。」
言いながらアンが一輪一輪、世界樹の回りに円を描くように花を散らしていく。
「それなら、その花を世界樹の回りに埋めてやればいいのに。」
望が不思議そうな面持ちで言う。アンはとっておきの悪戯を仕掛けた子供のような顔で笑った。
「私も、そう思います。けれど、」
言葉が切れる。一陣の風が、2人の間を分かつように吹いた。彼女の銀髪が吹き上げられ、望は静かに息を呑む。数え切れない数多もの感情を押し込め、上から愛情の一色で全てを塗りつぶしたようなその瞳が、狂おしげに世界樹を見つめていた。
「けれど、どうしても、隣に植えて差し上げられないのです。」
魔法嫌いの国、ガルディアの城下街。慢性的な喧騒を耳にしながら、短い黒髪の男が紙袋から取り出した赤い果物を齧る。何度か見知らぬ人間に話しかけられ、店頭に置かれた商品を手に取らせられる。男は進められたそれを一つ残らず買い占め、にっこりと微笑みまた歩き出した。そんなやり取りを幾度か重ね、装飾品を扱う屋台の歳若い娘が頬を健康的に赤く染めながら男に聞いた。
「お兄さん、良い男だね。何処から来たの?」
男が民族的な文様が描かれた茶器を手に取りながら視線を寄越さずに応える。
「砂漠さ。」
「サバク?」
「ああ。ガルディアの南端からね。」
「ふうん…。…あ!知ってる!えーと、ナジリア。ナジリアでしょ。あの、砂しかない所!」
男が微笑む。手に取っていた茶器を娘に寄越し銀貨を何枚か手渡す。
「え、多いよ。」
「口止め料さ。僕が砂漠から来た事は、秘密なんだ。」
娘が訝しげに眉を寄せる。男は手渡された茶器を背負っていた皮袋に入れると、じゃあね、と去っていく。その後ろを、黒毛の犬が追い掛けた。人と人の間を縫うようにして進む。深い声が男に話しかけた。
「手掛かりはあるのか?」
男が後ろを振り向き、犬を見やると小さく首を振った。
「いいや。」
「…ああ、だからか。」
犬が呆れたように鼻を鳴らす。
人々が彼らを取り巻き素通りする。幼い少年が犬を指差し、楽しげに笑った。母親が男に近寄った。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
男が微笑む。人のよさそうな笑みを、母親の背に隠れた少年が見上げる。
「旅人さんでしょうか?」
女性が尋ねた。男が頷く。どちらから?南の果てから。まあ、じゃあ、貴方、砂漠からいらしたの?ええ。大変だったでしょうね。犬が旅人の砂避けのマントを口で引っ張る。その仕草を、少年が目を輝かせて見つめた。女性が少年の頭を撫で、男の前に押し出す。
「動物が大好きなんです。犬を触らせてやってくれませんか?」
「どうぞ。大人しい子ですから、遠慮なさらずに。」
許可を得た子供が、恐る恐るといったふうに犬へと手を伸ばす。柔らかな子供の手が硬質な犬の黒毛に触れ、びくりと揺れる。子供はじわじわと興奮を覚え、数秒後には全身で犬にじゃれついた。男がその様子に楽しげに笑う。母親が男に小さく頭を下げ、男が片手を小さく振る。
「すみません、わんちゃんも、困っていますね。」
「気にしないでください。シャイな奴なんです。内心嬉しいんですよ。」
母親が微笑み、男が一人と一匹を見つめた。
「でも旅人さん、残念ね。」
「え?」
「もう少し早く来ていれば、国中お祭り騒ぎだったのに。」
男が首を傾げる。母親は残念そうな、どこか不快そうな表情で応えた。
「神子様が、異界からいらしてくださったのですわ。」
「異界?」
「ええ。神殿の湖に、現れたのです。ああ、その湖は特別なもので、神子様以外の方が入ると、途端に赤く穢れてしまうのですわ。」
男が笑う。
「それは、面白いですね。」
女性が首を傾げた。
「面白い?」
「あ、いえ。なんでも。それで、その神子様?が、どうかなさったのですか?」
「…ええ。神子様が来てくださって、この国は朝も昼も、お祭りをしていました。それほど嬉しかったのです。何しろ、ずっと待っていた方だったのですから。でも、」
「でも?」
母親の瞳に影が落ちる。落ちた沈黙。子供の声が響いた。
「神子様は、世界樹様に認めてもらえなかったんだ!」
「こ、こら!」
母親が窘める。幾人かの通行人の目が集まり、母親が慌てて男に頭を下げ、去っていった。犬がぶるりと身体を震わせた。毛が逆立っている。
通行人が囁く。
「あんな子供にまで、」
「嫌だわ。うちの子まで知っていたらどうしましょう。」
「全く、がっかりだよ。」
「世界樹様に認めてもらえないんじゃな。」
「でも、世界樹様が仰っていた愛し子って、一体誰なんだろうな。」
「そんなのどうでもいいわよ。」
「あーあ、ぬか喜びだ。」
男が歩き出す。犬がその後ろを静かについていく。初夏の日差しの中、マントを着こみながらも汗一つかいていない男の異常さに、誰もが気づくことはない。犬が一声鳴き、男が呟いた。
「勝手な奴ら。」
「全くだ。」
男の背中を立ち止まり見ていた少女が、静かに背中合わせに歩みだした。
抱えた籠から顔を出していたウサギのぬいぐるみが、わん!と鳴いた。
鏡の中の凡庸な男が、何をそんなにつらいのかというふうに男を見返す。ざっぐばらんな印象を受ける顎のラインで切りそろえられた黒髪が揺れる。鏡の中の男が、男の意思に反しその瞳から透明さを保つ滴を滴らせる。男は彼の涙を指先で拭うような仕草をした。指先が鏡面に弾かれ、冷たさを肌に伝える。
「泣かないでくれ。」
懇願。
鏡の中で生きる彼は悲しげに頭を垂れた。物言わぬ虚像に男が切なそうに唇を噛んだ。
「仁敏。」
男が男の名を呼ぶ。鏡の中の男が顔をあげ、はらはらと涙を舞わせる。
「仁敏。」
2人が全く同じに鏡面に手をつく。波紋を描くように揺れた鉛が男の指先を通し、遂になった手が互いにしかと握られる。
「……暖かいね。」
確かめるような声音。鏡の中で、男が何かを囁く。まるでその言葉が男に届くと信じ切っているかのように、ただひたすらに盲目的に。男はそれを愛しげに見つめ、目を瞑る。反対側の男が、対照的に目を見開いた。瞬きの間に男の顔が歪み、端正な面立ちの美丈夫が現れる。全く別の容姿をした男が、鏡を跨いで向かい合う。
「仁敏。―――愛しているよ。お前の事を。」
「―――!」
悲痛な声が聞こえ、鏡に静寂が訪れる。繋がれていた右手が断たれ鏡は鏡としての働きを思い出す。
後ろに佇むベッドに倒れ、男はシーツの海に沈み込む。どんどん埋もれて行く体に、ゆっくりと目を閉じた。
「愛して、いるよ。」
美しく潤った赤い唇が、消え入りそうな声音で小さく呟いた。
白い薔薇が、好きでした。
凛と、たった一輪でも凛と立つ、誇り高いあの花が好きでした。
叶うことならば、自分もそうありたいと、そんな風に生きられればと、願っていました。
ああ、けれど。
ああ、けれど。それでも。
あなたさまに手折られるならば、この花弁が醜く枯れるまで、その日まで、きっと一緒にいたいと。
願ってしまった事が過ちだとは知らず、愚かにも―――、
愚かにも、恋を、しました。