▼すりー。
仕事に疲れてくたくたの使い古されたボロ雑巾のような状態で家に帰ったら居間に宿敵である二ノ宮がいた。
僕の極楽にまさかの悪魔が登場した。悪魔。魔王。鬼。畜生。魑魅魍魎。言い方は何でもいい。とにかく悪しき魂の所有者が我が楽園に侵入している。
二ノ宮はその禍々しい横に長すぎる目を縦にかっぴらいて僕を睨む。
り、理由もなく人を睨むとはこいつ、なんて失礼な!
睨みたいのはこちらの方である。あの魔の高校事件から僕のいたいけな尻は深刻なダメージを受け今ではもう排出行為をする際にもいつ裂けて血が出るのかとビクビクする日々だ。なんということか。
「兄さん?帰ってたの?」
「う、うみ!」
きょ、今日もかわゆいなあ!なんと愛らしい我が弟!国宝級である。僕は胸の内にぐるぐると氾濫する我が弟への尽きぬ愛をどうにかこうにか体外へ放出する事を堪えながら自室へと戻った。
帰ってすぐにうみの声を聞けるとは。今日は何と良い日であろうか。
あの天使の歌声に勝るとも劣らぬうみの美声は僕の耳をこれ以上ないほどに癒してくれる。うみに挨拶してもらえるだけで僕の耳はとても幸せだ。毎日毎日職場で自主規制しなくてはいけないような単語ばかり聞いている僕の耳はうみの声の御蔭でかろうじて腐らずに今もこうして存在している。
すっかり着替えてうみに会おうと居間に行くと宿敵である二ノ宮がいた。
なんということであろうか。
僕の極楽にまさかの悪魔が登場した。悪魔。魔王。鬼。畜生。魑魅魍魎。言い方は何でもいい。とにかく悪しき魂の所有者が我が楽園に侵入している。
本当なら今すぐにでも佃煮にして食ってしまいたい気分であるがうみの目の前では流石の人でなしの僕であろうともそこまで野蛮な真似はできず仕方なしに口をつぐむ。
我が最愛の弟の庇護をもつとはこ奴悪魔のくせに悪運が強い。憎まれっ子世に憚るという奴であろうか。長い付き合いになりそうである。忌々しい。
「お疲れ様、兄さん。仕事、どうだった?」
う、うみ!
僕ごときの心配をしてくれるなんて、お前は本当に良い子である。人類の鏡である。僕は感動にうち震えながら今日あった出来事を嘘十割でうみに話した。うみに嘘をつくのはなんとも心苦しい事であるが魔法の白い粉を今日もいっぱい配達してきたよ!などと行ったら兄の人格を疑われることは間違いない。うみに軽蔑と侮蔑の目で見られるのは僕のいたいけな心が耐えきれない。そのような事になるくらいなら華厳の滝から身を投げた方がよっぽどましである。
うみは僕の話を聞き終えると菩薩のごとき清らかな笑顔で微笑み兄の頭を撫でた。
「今日も頑張ったね、兄さん。」
「う、うみ!」
ああ、だ、大好きである!
今すぐにも抱きしめてうりうりしてやりたいが僕のような汚濁に塗れた人類の屑がそのような事をしては清廉純白なうみに傷がつかないとも限らない。僕はこの激情をどうしたらいいのだろうか。きゅーと余りの愛しさに悶えていると隣からおどろおどろしいこの世のものとは思えない声が聞こえてきた。あまりにも浮世離れしているから僕だけに聞こえる地獄からの使者の声かと思った。
「おい、お前、うみの兄貴か?」
そうだ。そうである。この前言ったではないか。そんな事も忘れたのか?この単細胞め。
知れば知るほどうみには相応しくない。不釣り合いである。
「はあ?聞いてねえよ。この前会った時は、お前なんも言ってなかったじゃねえか。」
な、なにおう!
言いがかりである。この前会った時といえば僕は貴様に政治家の演説もかくやという滑らかな口上で貴様の至らぬところをとくと言い聞かせたではないか。貴様はそれにへこへこしながら「すいません、お義兄様、全て僕が悪かったです。どうかお許しを。僕ごときがうみくんと付き合うなんて身の程知らずも良いところでした。蛆虫ですみません」と言っていたではないか!
僕が堂々たる面持ちでそう言ってやると二ノ宮は何も言わずに僕の頭部を強打してきた。
な、なんたる暴挙…!
野蛮人め!農耕民族の末裔とは思えぬ振る舞いである。
「テメエ、馬鹿にすんのもいい加減にしろよ?夢でも見てたんじゃねえの?ばあか。」
「馬鹿はお前だろう、潮。俺の兄さんに何してるのさ。死にたいの?」
う、うみ!兄を庇ってくれるのか!なんと優しい弟であろうか。僕は感動した。このように殴られて地に手をついているところなど恰好悪くてみせたくはなかったが僕が恰好悪くてみっともないのは生まれついての事である。今更変えられる事では到底ない。
「大丈夫?兄さん。」僕は必死に頷いた。僕のような人間にまで慈悲を注いでくれるうみ。優しいうみ。我が最愛の弟よ!兄はとても誇らしい。うみはにっこりと素晴らしい笑顔で微笑むと僕を抱えあげ自室まで連れて行った。
な、なんだ?
なぜ居間から出るのだ?
考えていた事が顔に出ていたのかうみが僕に丁寧に説明した。
「潮と兄さんは仲が悪いだろう?二人が一緒にいるとさっきみたいな事になってしまうからね。兄さんに傷ついて欲しくないんだ。」
なんと優しい弟!僕は華吹雪でも散らしたい心持である。
浮かれていた僕は数分後気づいた。
あれほど野蛮な二ノ宮である。うみにだけ何もしないということは、ないのではないか…?
い、いや。確かに二ノ宮は野蛮であるが、うみはこの世のものとは思えない愛らしさ。そのように素晴らしい生き物に手を上げるなど、流石の二ノ宮もしない…とも言いきれぬ。
僕は決めた。弟を守るのは兄の役目である。待っていてくれ、うみ。無事であるならそれで良いのだ。
兄は万が一の時の為に行動するのである。
意を決して向った居間では、うみが二ノ宮にまたがり一心不乱に拳を奮っていた。
「あ、兄さん。」
な、なんということか。
に、二ノ宮の悪影響である。明らかすぎるほどに明らかな二ノ宮との交際による弊害。
憂うべき事態が既に手遅れで有ることに気付き僕は涙した。
ぼたぼたと滴る塩水が僕の頬をたたく。
「に、兄さん!」
「う、うみ!兄は、兄はぁあああ!」
天国の父母に顔見せできない…!
か、監督不行き届き…!
「ぼ、ボクシングの練習だよ!」
「……ぼくしんぐ?」
「うん!今体育でやってるから、予習をしてたんだ!ね!」
うみが後ろでうずくまっていた二ノ宮にいう。二ノ宮はゆっくりと、だが確かに頷いた。
―――なるほど。言われてみれば確かに怪我をしているのは二ノ宮だけではない。うみの頬にもうすらと殴られたような跡が見えなくもない。
僕は安堵に胸を撫で下ろした。
授業の予習をするなんて、流石は我が弟、学徒の鑑である!