豊かな銀髪を後ろで三つ編みにした、小柄な体躯の少女は控えめに微笑みながら、ガルディアの国宝と称される『神子』へと話しかけた。躊躇うような戸惑いが一瞬声に現れ、神子―――唐島望はいたく傷ついた表情を彼女に晒す。
「神子様、こちらはマロリスで御座います。三つ向こうの国でとれる、珍しい茶葉です。」
「そ、そうなの?」
途切れる会話。望の背に嫌な寒気が生じる。熱くもないのに、汗をかいた。
少女はゆっくりと茶の用意をしながら、ふと気付いたように声を上げた。
「そうですわ、神子様。」
「え?」
少女のアメジストの瞳が快活なきらめきを放つ。
「私、ついこの間宮中に上がったばかりなのです。ですから、神子様のお好きな物や、嫌いな物、何も分かりません。宜しかったら、私にぜひ教えてくださいませ。」
望は驚いた表情で少女を見た。彼女は一片の曇りもない、敬愛の眼差しでただ望を見つめる。
「す、好きな物と、嫌いな物?」
「はい。」
「お、俺ので良いの?」
「はい?」
「あ、な、なんでもない。」
訝しげに首を傾げる少女に、望は慌てて首を振る。知らず知らずのうちに、彼の頬に笑みが浮かんだ。少女がカップへと注いでおいた湯を茶器へと戻し、暫くしたあと、ゆっくりとカップへと注ぎ戻した。清涼な香りが望の鼻腔をくすぐり、どこか安寧を感じさせる。
「マロリスは、柔らかな口どけが特徴の、優しい味の茶葉です。神子様の御口にも、きっと合いますわ。」
ゆっくりと語りかける少女の声を聞きながら、望はカップに口をつける。
程良い温度が舌を刺激し、少女の言うとおりの、蕩けるような口どけを感じる。
ほんの少しの不安を眼の奥に潜ませる少女に、望は小さく言った。
「…美味しい。」
沈黙。カップが陶器質な音を立てる。下げていた目線を、望が恐る恐る上げた。
「――――嬉しゅう、ございます。神子様。」
鮮やかに笑う少女の優しい笑顔が、彼の目線を捉えた。


上等な革の手袋に包まれた男の掌が、内に握っていた一羽のハトを捻り潰した。悲痛な今際の泣き声が響き、水分質な音が聞こえる。半歩ほど離れた場所からそれを見ていた神経質そうな青年が息を呑む。
「わ、我が君…。」
歯軋り。その並びの良い歯列が憎々しげに噛みあわされ、精漢な顔つきの美丈夫が爛々と目を輝かせる。混濁した感情の狭間に苛立ちだけがはっきりと浮かび上がった。
「あの男、逃げるのだけは憎らしいほどに上手い―――!」
「仕方ありませんわ。」
愛らしい声が男の声に応える。幼い少女が両手いっぱいに花を抱えながら無邪気に微笑んだ。華やかな装飾の施されたドレスが、彼女の幼いながらに際立つ容姿を引き立てる。
「仕方ない?」
訝しげに男が問う。手の中の肉がピクピクと痙攣し、やがて脱力した。
「はい。お兄様はとっても恐いのですもの。」
少女が危なっかしい足取りで男に近づき、身軽にその膝に飛び乗る。
「いつも眉毛と眉毛の間が皺皺で、姫はもう慣れましたけれど、白薔薇様はきっととっても恐いと思っていてよ?」
「はっ!あ奴がそんな玉か。」
鼻で笑った男に、少女が頬を精一杯に膨らませる。
「お兄様!白薔薇様の事ならば、姫の方がよく知っておりますのよ!」
「ほう?」
「だって、姫は白薔薇様のお気に入りですもの。お気に入りなのですもの。」
まだ赤子の時分の名残が抜けない稚い手が必死に兄の服を掴む。
「ほう。姫、そなたは白薔薇と言葉を交わした事が御有りか?」
「ええ。ええ!もちろんですわ、お兄様。姫は白薔薇様ととっても仲良しですよ。」
兄がその端正な顔を優しげに歪ませる。大きな手が少女の柔らかな栗毛を撫でた。
「でも姫。白薔薇は城にはいない。」
「存じておりますわ。逃げだされてしまわれたのでありましょう?」
「ああ。そなたはそれをどう思う?」
桃色の小さな唇が噤まれる。暫しの逡巡の後、少女は言った。
「寂しいです。出て行くのなら、姫も連れて行ってくだされば良かったのに。」
「そうだな。でも、姫と白薔薇が二人ともいなくなれば、私は姫よりもっと悲しくなってしまうぞ。」
少女の大きな目が溢れんばかりに開き、慌てたようにその小さな手がしっかりと男の服を掴んだ。
「だ、だめです、だめです!姫は白薔薇様がとっても好きですけど、お兄様もちょっとは大好きです!お兄様が悲しくなってしまうのは、駄目ですわ!」
「ありがとう。姫。そなたがいてくれて、とても嬉しい。けれど姫、白薔薇が城に帰ってくれば、もっと幸せになれるな?」
「そ、そうですわ。白薔薇様が帰ってくれば、姫もお兄様も、皆幸せです。」
「ああ。姫、白薔薇を迎えに行こうか。」
男が笑う。片腕に少女を抱きゆっくりと立ち上がった彼はそばに仕えていた青年に声をかけた。
「宰相。」
「はっ!」
「隣国へ行く。」
「り、隣国でございますか?しかし、我が国と隣国は深刻な外交不和を…、」
「良い。同盟でも結ぶと説き伏せろ。」
青年―――宰相が押し黙る。男は不敵な笑みをその端正な顔に浮かべた。
「神子でも王でも国でも、あれを返すのならば幾らでも守ってやろう。」
「我が君―――、」
「隣国の二代目も愚かよのう。我が国による魔法での庇護を失ってまで、たかが神とやらの子が欲しかったか。…まあ良い。愚か故、我らの付け込む隙ができる。」
青年がゆっくりと片膝をつき頭を垂れる。
「衰え果てる前に救ってやろう。我が側室の愛した郷里をな…。」
「仰せのままに―――国王陛下。」
示された当然の忠誠に、マギルダ・ガイルドは口の端を上げ応えた。腕に抱かれた幼子が、不思議そうに小首を傾げ、彼女の指先が触れた子鳩が、ぎこちなく男の手から空へと羽ばたいていく。バルコニーの外には、広大に続く魔法使いの国、フローリアの華やかな城下街が賑わっていた。


「御帰りなさい。子鳩ちゃん。」
使用人の服装に身を包んだ銀髪の美しい少女が窓枠へと降り立った一羽のハトに微笑む。
ハトは苦しげに一声鳴き、愛らしい少女の声音で話しだした。

「白薔薇様。ミシェルですわ。白薔薇様、白薔薇様、お会いしとうございます。どうしてミシェルを連れていってくださらなかったの?ミシェル、白薔薇様が好きよ。お兄様よりも、ずっと好きよ。寂しいです。寂しいです、白薔薇様。どこにいらっしゃるの?ミシェルはそこへ行っては行けませんの?白薔薇様、御返事をくださいまし。ミシェルはずっと待っていますわ―――。」

良い終わると同時に、ハトの膨らんだ腹が赤くはじける。慌てる様子もなく寸前に部屋の窓を閉めた少女は、汚れてしまった窓ガラスに溜息をついた。ベッドの上に転がっていた桃色のウサギの縫い包みが蠢く。何処からかしわがれた声が彼女に話しかけた。
「血の色だぁ。旨そうだなあ…。」
少女はガラスに目を向けたままそれに応える。
「食べれば?」
「そんなもん食ったって、腹は膨れねえや。」
銀髪が揺れ、少女が縫い包みに向かい合う。途端汚れていたはずの窓が数刻前の透明さを取り戻した。
「お前は本当に食いしん坊なんだから。」
「食いしん坊!?オイラ、もう二週間も何も喰ってねぇ!」
「馬鹿ねぇ、お前はなんにも食べなくたって、千年は平気でいられるでしょう?」
「腹が減って狂っちまうよ!」
切実な叫び声とともにベッドに突っ伏した縫い包みに、快活な笑い声が響く。耳通りの良い『テノール』、ウサギが頭をもたげると、そこには偉そうに足を組んだ黒髪の青年が佇んでいた。顎先で切りそろえられた彼の黒髪が窓の隙間から入り込んだ風に揺らされる。
ウサギは呆れたように彼に訊いた。
「なんでわざわざ女の恰好をするんだ?」
「可愛いだろう?」
「可愛くってもよう、本当の顔を知ってるオイラからしてみれば、気持ち悪くって口がムズムズするよ。」
男が眉を寄せる。
「失礼な奴だ。シチューにして食ってしまうよ。」
「縫い包みをかい?」
「不味そうなウサギだねえ、お前は。」
沈黙。ウサギが聞いた。
「また引っ越しか?」
「いいや。此処にいれば当分の間は安心さ。」
「なんで逃げるんだよ。さっさと帰って王様に謝ればいいじゃないか。バジル。」
男―――バジルが困ったように頬杖をついた。
「そうだね。でも―――僕は此処が好きなんだ。」
すい、と視線が遠くへ投げられる。ウサギは彼の横顔を見つめた。
「此処が?」
「ああ。この国が、ね。」

辿る視線の先には、青々と葉を茂らせる世界樹があった。





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