ああ、妾の可愛いややごはどこじゃ。
妾のあの子はどこにおはす?
ああ、妾の、妾の、妾のあの子を返しておくれ。
唐島望はその嘆願と思える世界樹の嘆きに言葉を失った。
丁度一か月前。望は地球の日本から、この名の無き大陸へと降り立った。ただの高校生であった自分が、世界を超え、この国に来たことで、神子と呼ばれ、敬われ、崇められた。その異様な流れに恐怖を抱くこともあったが、何時だって親身になって自分を支えてくれる周囲に助けられ、此処まで耐えてきた。
自分は神子なのだから。
この世界を救えるたった一人の―――。
そうして今日。望の周囲がようやく落ち着いてきたこともあり、正式に神子としてお披露目される事となった。
神子と認められる―――それは世界樹に愛されるということだ。神子であれば、その世界樹の御神体に触れるだけで、花が芽吹き、草が揺れ、祝福に風が歌う。そうなるはずだった。何故なら、望は確かに神子としてこの世界に呼ばれ、周囲に認められたはずだったのだから―――。
当りに気味の悪い沈黙が流れる。
望は茫然とその場に立ち尽くしていた。かさついた唇から、なんで、と言葉が漏れる。
それに呼応するかのように世界中が葉を揺らし、辺りを地響きが襲った。
妾の!妾のややごを返しておくれ!
妾の愛しいあの子を、どうか返しておくれ!
違う、違う、そなたは妾のややごではない。
そなたは確かに世界が認める『神子』であろうが、けれど妾のあの子ではない。
あの子でなくては。
妾の、妾の愛しいあの子を、どうか返しておくれ!
「そ、んな――、」
語尾が消える。そんな、そんな事って。胸に渦巻く絶望と悲嘆。望まれてこの地に来たと、信じていたのに。皆がそう言ったのに。『神子』だから、必要としてもらえたのに―――。愛されなければ意味がない。世界樹に愛されない神子など―――意味が、なかった。
世界樹の儀を見に集まった観衆の中、乳白色の日除けのマントがふわりと揺れる。金糸で刻まれた薔薇の紋様が風に揉まれた。
顎先で切りそろえられた黒髪をマントの闇の奥で揺らしながら、バジルは落胆したように溜息をついた。彼の肩に乗せられていた愛らしいウサギのぬいぐるみがケタケタケタケタと薄気味悪い笑い声を立てる。
「やーい、やーい。良い見物だぜ!なあ、バジル。」
「趣味が悪いね、お前は。」
透き通るようなテノールが、ウサギのしわがれた声に応えた。
「あの人間、顔が真っ青になってる!ぐへへ、世界樹もたまには良い仕事をするぜ!」
青年が混乱を極める観衆の中から足早に抜け出す。狭い路地に入ったところで、彼は鬱陶しそうにマントを脱いだ。耳元で輝くエメラルドが、日の光を反射した。
「可哀想に。」
バジルの呟きに、ウサギが不思議そうに首を傾げる。
「可哀想?どうしてだよ。アイツ、ちゃんと神子だぜ。世界樹が言ってたじゃないか。神子ってことはこれからもお城でのんびり暮らすんだろ?幸せだろうが。」
「いいや。」
些か厳しい声でバジルが首を振る。その視線の先にはしっかりと当代の『認められぬ』神子が映っていた。
「さっきの世界樹の言葉を、ちゃんと聞いてる奴なんていやしない。花が咲かなければ、彼は神子とは認められないさ。」
「ふうん。別に、認めらんなくっても、神子は神子だろ。」
「ああ!」
呆れたようにバジルが手を額にあて空を仰ぐ。
「全く、君って奴は!」
「な、なんだよう。」
「それは君が悪魔だから言えることであってね、人間はそう都合よく考えられないんだよ。」
「ふうん…。」
バジルが唐突に広間に背を向け路地を歩きだす。突然の方向転換に、ウサギがぎゃっと叫んだ。
「お、落ちそうになったぞ、バジルぅ!」
「一々煩いなあ…。静かにしておいで。」
駆け足直前の早歩きでひたすらに路地を進み、時に大通りに出て、時に人の屋敷を跨ぎ、滅茶苦茶な道で自宅へとたどり着いたバジルは肩にずり下がったウサギを完璧に無視して寝室へと進んだ。乱暴な動作に耐えきれずとうとう床へと落下したウサギは軽快な音を立てて木目の間を転がる。
「どうしたっていうんだよ!」
叫ばれた声に扉から頭だけをのぞかせてバジルが答えた。
「さっさと支度をおし!置いてっちまうよ!」
「…どこか行くのか?」
バジルは答えない。ウサギがそろそろと寝室を除くと、彼は大きめのバッグに大量の宝石類をがしゃがしゃと突っ込んでいた。あらかたバッグがいっぱいになると、バジルはくるりと振り向きベッドの上をバンバンと叩く。すると布団がひっくり返り、隠し扉が幾つも見える。その中にも大量に押し籠められていたジュエリーにウサギが呆れたように口を開いた。
「バジル。女じゃあるまいし、そんなに宝石ばっかり持っててどうするんだよ。」
「持ってて損はないだろう。綺麗だし。いざとなったら食べられる。」
「ひぃ。これだから魔法使いは恐いよ。オイラはそんな硬いものをガリガリ食べるバジルの気がしれない。」
「お互い様さ。よし、これで最後。」
見慣れぬ鉄の四角い塊を乱暴にバッグに押し込むとバジルは満足そうに笑った。
「今度はどこに行くんだ?」
ウサギがこてん、と首を傾げる。
「そうだなあ…。」
「オイラ、人がたくさん死んでるところが良いなあ。」
「…不謹慎な奴め。」
「腹が減って死にそうさ!小指だけで良いからバジルを食べさせてくれれば、一カ月はお腹いっぱいになるけど…。」
ガリガリと石灰で床に円を描きながらバジルが笑い声を上げる。ウサギが拗ねたように地団太を踏んだ。
「ちぇ!そうやっていつもオイラをへとへとにするんだ!」
「少し黙って目をつぶっていればどうだい?僕の小指で百年は持つようになる。」
バジルが言った言葉にウサギは渋い顔をした。おしゃべり好きな悪魔は二分と黙っていられない。
幾何学的な文様を何重にも書き散らした円の上にバジルが立つ。ウサギが慌てて中に飛び込んだ。バジルがゆっくりと詠唱を始めるとともに、石灰で書いた円がぼんやりと発行しながら浮かび上がる。次第にくるくると動き出したそれに二人が包まれ、視界が光の氾濫と共に一気に白く爆発し、一人と一匹が目を開いた時には、そこは以前とは全く違う部屋の一室だった。ウサギはきょろきょろとあたりを見回し、バジルに言った。
「なんか…貧乏くさい部屋だなあ。」
棚の上の埃を払い、せんべい並みに硬くなってしまっているベッドの上の布団に腰かけながら、四畳半程度の部屋を見渡し、バジルはにっこりと笑った。
「一人で済むにはちょうどいい大きささ。」
「一人?二人だろ。」
「おや、お前も一人と数えるの?」
暫くの沈黙の後、ウサギが苛立たしげに窓を蹴った。バジルが腹を抱えてベッドに転がり、軽いベッドがカタカタと揺れる。それを見たウサギが怒りも吹っ飛んだような様子で尋ねた。
「バジルぅ…。本当に此処は人が住めるのかぁ?」
「勿論さ!ベッドも、窓も、ちゃんとドアだってある!」
「…だけどよぅ…。一体どこなんだぁ?このボロ屋…。」
バジルがバッグを開け中の煌めく宝石の粒を指先で撫でながらにっこりと答えた。
「王宮の、召使たちの居住スペースさ。」
ウサギは言葉をなくし、おろおろとあたりを見回したあと、やっとというふうに呟いた。
「王様でも殺す気かよぅ…。」
バジルの笑い声が部屋に弾けた。