ゆらりと陽炎のように人の頭部ほどの大きさの水晶にある一室の情景が映る。窓際の棚の上、薔薇の刺さった花瓶の上に置かれたウサギのぬいぐるみが、遠目にそれを見ながら不思議そうに首を傾げた。
「どこだあ?そこ。」
水晶を上から覗き込んでいた漆黒の髪の美丈夫はそれに口元だけで微笑む。たおやかなその手が優しげに水晶を撫でる。
「王宮の中だよ。」
「オウキュウ?そんなとこ見るなんて、難しいんじゃないのか?」
快活な笑い声が部屋に響く。ぎい、と椅子が唸り、黒髪が空に舞った。
「忘れたのかい?ナポリタン。この国は大陸一の魔法嫌いの国だよ。悪だ悪だと忌み嫌われる魔法使いなんかが、王宮を守ってるわけないじゃないか!」
ウサギが耳をぴくぴくと動かし、呆れたように言った。
「でもよう。そんな馬鹿な事ってあるのかよう。城を守るのに魔法を使わないなんて。そんなことしたら、バジルがこの部屋から出ないままでもこの国の王様を殺せちゃうぜ?」
バジルが左腕を机の上に伸ばし、乱雑に物が置かれたそこをまさぐる。目当てのものを見つけた手がピクリと跳ね、口元に左手がかざされると、バジルは静かに紫煙を吐きだした。
「あるのさ。何も知らないっていうのはそういうことだ。」
「恐いなあ。」
「恐いだろう?だから僕は知ろうとしてるんだ。知らないと、何もできないからね。」
水晶の奥の部屋に、二人の人影が現れる。一人は平凡な、焦げ茶色の髪の少年。もう一人は上等な服を身にまとった、炎髪の男―――この国の、今上陛下である。
ウサギが棚の上から飛び降り、水晶の中を興味深げに見つめた。
水晶の中の赤髪が愛しげに眼を細め少年の頬を撫でる。対する少年は頬を些か赤くしながらも、嫌がるように身を捩った。
ウサギが短く口笛を吹き、バジルを見上げた。
「バジルぅ。この男、こいつにホの字なのかあ?」
バジルが器用に眉を跳ね上げる。口元は楽しげに綻びていた。
「そうみたいだな。面白い。王様が男色に走るとは。」
「悪いことか?」
首を傾げるウサギに、バジルはゆっくりと首を振る。大量の紫煙が辺りに漂った。
「悪い事なもんか。神様の子と恋仲になるって言ったら、そりゃあ名誉な事さ。国民に知れた日には一週間はお祭り騒ぎが続くだろうな。」
少年が俯きがちに何かを言い、それをきいた赤髪が喜色満面の笑みで少年を抱きしめる。
一連の動作を見つめて、バジルは水晶を乱暴に床へと弾き飛ばした。破裂音にウサギが身体を揺らし、テーブルの上から落ちそうになる。それに気を掛けることなくバジルは机上に足を投げ出した。
「つまらないなあ…。あんな普通の子に、なにが出来るっていうんだろう。」
「おいバジル!落ちそうになったじゃないか!」
ちらりとウサギを見て、彼は小さくため息をついた。
「落ちなかったんだから、いいじゃないか。」
だらり、と両手を垂らして上を仰ぐ。ウサギは不満げに地団太を踏んだ。
「バジルぅ。なんでそんなに不機嫌なんだよぉ。」
「別に…。不機嫌なんかじゃない。腹が立ってるだけさ。」
「不機嫌じゃないか!」
「ああ…うるさいなあ。夕飯の買い出しにでも行っといで。」
バジルが腕を大きく振る。するとウサギがぐるん、と回転し、その場に整った顔立ちの青年が現れた。青年は暫く呆然とした後、大きく頬を膨らませる。
「分かったよ!行ってやるさ!くそ、俺を小間使い扱いしやがって!」
「日が落ちるまで帰ってくるんじゃないよ。ああ、あと、生きている人間は食べないようにね。」
「わかってらあ!」
だん!と右足を踏みぬき、青年が外へと飛び出す。その背中をぼんやりと見送ったバジルは楽しげに喉を鳴らした。彼の右足が机上を探る。暫くそうして、目当ての物が革靴の先に当るとバジルはずりずりとそれを手元に引き寄せた。
愛らしい桃色の封筒に入れられたその手紙が、ひとりでに封を開き、宙に浮いた紙が話しだす。折り目が口の様に忙しなく動いていた。
「親愛なる魔法使いバジル・フレデリック様!この度は人間界に侵入してきた不届きなる悪魔族どもを壊滅すべく、国中の魔法使いが徴収されることとなり、貴方様にも軍への出兵をお願いしたい所存でございます!」
「…馬鹿ばっかり。」
「そして、我らが偉大なる魔法使い、マギルダ・ガイルド様の仰せにより、バジル・フレデリック様には、特別の任務を課せられ、どうぞ忌むべき隣国に降り立った、哀れな『神子』とやらを我が国へとお連れいたしますようにとのご命令です。」
バジルが静かに目を細める。中に漂う紙きれに顔を近付け、灰に蓄積された煙を吐き出す。途端燃え上がったその紙を、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
革靴の爪先がテーブルの角を蹴り、床に散らばっていた水晶のかけらが元の形へと戻る。中には先程の続きのように二人の人影が映っていた。
『―――でも、ギルディア、俺なんかに、そんなすごい力、あるわけないよ。』
『何を言ってるんだ、ノゾミ。お前は我が国のたった一人の神子だ。』
『でも…それに、ギルディアが前に話してくれていた、俺と同じ世界から来た人にも、まだ会えてないし…。』
『それは、すぐに見つけさせるから…。でも、どうしてそんなにそいつに拘る?俺達だけでは、不満か?』
『まさか…!でも、どうしようもなく、不安で…。』
『ノゾミ…。』
バジルが大きく息を吐く。水晶の表面に吸いかけの葉巻を押し付け、つまらなそうに宙を仰ぐ。
机の下に置かれていた鳥籠を取り出し、子鳩を出すと、優しげにバジルの瞳が揺れた。
「お使いを頼まれてくれるかい?」
鳴き声。バジルが笑う。
「ありがとう。お前は優しいね。」
子鳩が翼を一回羽ばたかせた。
バジルは言い聞かせるようにゆっくりと言葉を吐く。
「親愛なる大魔法使い様。わざわざお便りをありがとうございます。しかし私は些か体調が悪く、この頃は富に病床に臥せっております身。どうぞ私にその寛大なご慈悲の程を。隣国の神子につきましても、私の存ずるところでは全くなく、身に重い任務で御座います。どうぞもっと優秀な魔法使いに課せられませ。それでは。」
子鳩はそれを聞き終わると、クア、と一声鳴き、開けられた窓から飛び立った。見送ったバジルは顎のラインで切りそろえられた黒髪をぐしゃぐしゃとかきあげると、深くため息をついた。
「ああ、また引っ越しだ。あの子鳩、無事に帰ってきてくれると良いなあ。…ソテーになって帰ってきたら、泣いてしまう。」

栗色の髪の女性が、ふんわりと真っ直ぐな黒髪の男性に笑いかける。
男性は女性の言葉を聞くと、楽しげに笑い声を立て、彼女の膝に頭を乗せ、幸せそうに瞳を蕩けさせる。
ねえ、***さん。私、薔薇が好きだわ。たくさんの、白い薔薇よ。
薔薇?
ええ。薔薇。あんな風に、凛とした華になれたら、幸せね。
ふうん…。
***さん。貴方は、どんな花が好き?
俺?そうだなぁ…、
なあに?
なでしこ。
撫子?
うん。撫子が、好きだ。
―――嬉しい。好きよ、***さん。ああ、大変。『仁敏』が泣いているわ。
あの子は、良く泣くね。
ええ。抱き上げてあげないと、絶対泣きやまないの。ほら、ママよ。仁敏君。
あ、泣きやんだ。
うふふ。私だっていう事が分かるのよ。きっと、安心してるの。
―――綺麗だね。***さん。





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