▼つー。
非常に使い道のない、例えるなら天井の隅にはりつく蛾のような情報ではあるが自己紹介をしておく。
僕の名前は日下そら。
日下うみの実の兄である。
年は数えで18歳。普通にいえば17歳。身分は社会人であり、とある組織に所属している。世間の人々は我々の事をときおりやーさんだとかMr.ヤーだとか自由業者だとかいう。あまり誉められた事はない。
丁度十二時間前最愛の弟にカミングアウトをされた。びっくりしすぎて死ぬかと思った。
そんな僕が今何をしているか?
逃げている。
僕の仕事は九割九分が逃げることであり、残念ながら人生の方も十割近くが逃げることで構成されている。
そうする事が生きるためにどうしても必要であったので別に嫌だとかそういう贅沢を言うつもりはない。第一臆病で卑怯者で逃げ足の速さくらいしか誇れるところがない僕に出来ることなどたかが知れているし、むしろ役不足である。僕にはぴったりの仕事だ。
段々とずれ下がってしまっていた胸に抱いていた袋を抱え直す。この袋には義兄弟の契りを結んだ恐ろしい御人たちがぐへへとと笑って売りさばくための白い粉が入っている。
なんとか追手を振り切りいりこんだ路地の奥の奥へと逃げ込む。肺小胞が破裂してしまいそうなほどに息が切れ血液がありえない早さで全身を駆け巡っているが、胸に抱いた袋は無事である。かすり傷一つない。喜ばしいというには社会情勢が些か悪すぎるので言わないが、これでまた僕とうみ、日下家男児が生きてゆくための報酬が手に入ることは確かだ。
息をひそめて身体をこれでもかと小さくしながら、僕はぼんやりと昨日の弟を思い出していた。それはそれは可憐に美しく涙を流していた弟であるが、その原因が原因だけに哀れで仕方ない。兄がもう少しましな仕事をしていたのであれば然るべきところに出て思いきり争ってやりたいほどである。残念ながら現職では敗北が目に見え過ぎているが。探られて痛い腹をもつと不便な事この上ない。
そこまで考えたところで思い至った。
も、もしやうみの恋人は、うみの兄である僕がこのような社会に蔓延る青黴のような行いをしているのを知っていて、お門違いも良いところにうみの事を軽んじているのではなかろうか…!?
ああ、きっとそうだ。そうにちがいない。それ以外にうみがあのように酷な扱いを強いられる理由がないのだ。なんということだろう。今すぐに飛んでいって、その男にそれは違うのだと教えてやらねば。うみは生まれたての赤子のように一点の曇りもない美しい心をもっているのだ。そのようなうみを僕ごときが汚せるわけがない。こんな仕事をしているなどと、僕がうみに打ち明けられるはずはない。うみのなかでぼくは外資系で働くやり手のビジネスマンだ。
ああ、どうしようか。理由が分かってしまっただけに、心が痛くて仕方がない。ぼくはそろりと闇の中を動きだし、追手の目を欺くために路上で恥じらいもなく着替え、リュックサックをナップザックに替えた。
きょろきょろとあたりを見回してから、何食わぬ顔をして大通りに出る。
その日の仕事は無事に終わった。
翌日。僕は非常に心苦しい事だが、うみの幸せを願い、うみの通う高校に潜入した。あたかも最初からここの生徒だったかのように校舎にいた生徒に声をかける。さりげなくうみの恋人の事を聞いてみると、驚くべき事に有名であるらしく、鼻息荒く説明をされてしまった。いつのまにか世間は男同士の恋愛を容易く受け入れるほど寛容になったらしい。とにもかくにも情報は手に入れた。うみの恋人は二ノ宮潮というらしい。名前まで偉そうな奴である。忌々しい。
僕は機を待った。三時間ほど待つと、機は熟した。放課後が来たのである。二ノ宮の教室だという1Aの教室前で待ち伏せし、授業中に盗み見した二ノ宮の憎らしい顔を見つけると、思いきり手刀を首筋に叩きこみ、体育倉庫に拉致した。残念ながら僕の手刀は二ノ宮には効力を発揮せずこれでもかというほど二ノ宮に抵抗されたが、気力で拉致しきった。集めてしまった視線はこの際気にしない事にする。計画には予定外がつきものであるし、そういうのと妥協しながらやっていくのが大人である。
「くそっ、なんなんだよ、平凡野郎が、」
二ノ宮はそのビスクドールもかくやというほど整った、けれど所詮は人間風情なうみの足元にも及ばぬ顔面を悪鬼のごとく歪ませ僕を詰まった。この馬の骨が!そのような顔をされても、恐くもなんともないわ!
僕は今すぐにでも目の前の男をぶちのめしてやりたい衝動を抑え込んで、話し始めた。
「そ、そなたは日下うみの恋人であろう?」
「…………だったら、なんだよ。」
なんだよ、はこちらのセリフである。なにを訝しげな顔をしているのだ。僕のような人間の屑と話す事はなにもないというか。これでも僕はうみの実兄なのだぞ!今のうちに媚びを売っておかないと将来いびり倒してしまうからな!
「あ、あのう…つまり、えーと、う、うみにあまりひどい事をしないで下さい。」
二ノ宮がその切れ長の瞳を見開く。まるで蛇女の口がかっぴらいたようでとても怖い。二ノ宮は何故か酷く不機嫌そうに顔をゆがめ、僕を「この平凡野郎。」と罵った。なんという奴であろうか。凡そ平に腰が低いというのがそれほどまでに悪い事であろうか。蔑まれる謂れはこれっぽっちもないわ。
「お前、あいつのなんなわけ?」
「そ、それは…」
兄だ。兄だが、どうして二ノ宮はそんなに僕を睨んでいるのだ?まるで親の敵にでもなった気分である。五臓六腑がきりきりと痛む。僕は酷く繊細であるからしてストレスにはめっぽう弱い。ぐずぐずと言い淀んでいる僕に腹が立ったのか、二ノ宮は僕はいきなり殴りつけた。
「な、な、な…っ」
なんて野蛮な奴であろうか!僕はじくじくと痛む頬に茫然とし、目からは汗が出た。あんまりぼたぼたと出てくるものだから、床に落ちたそれの重さで埃が少し舞った。
二ノ宮は邪悪に魂の汚さが滲み出る笑い方をしながら僕の上に跨った。
「そらを庇うような事言って、結局は俺に抱いて欲しいんだろ?いいぜ、抱いてやるよ。その代わりもう二度と顔見せんな。」
犯された。
あんまり恐かったので僕は二度と高校なんかに行くものかと思った。よっぽどうみにもあの様なところに行くのは止めて欲しかったのだが、一度打診すると困ったような顔で駄目だよ、と窘められてしまったので渋々諦めた。どうにも尻の具合が悪く、お腹もゆるゆるになってしまったが、うみにいたく心配されて優しく介抱してもらえたので、悪い事ばかりでもなかった。と思っていたら、今日トイレに行った際、尻からドバッと血が出た。病名は切れ痔である。泣いた。高校恐い。
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