▼食べられてはいけません。



「兄さん。俺の恋人が男でも…軽蔑、しない?」

吃驚しすぎて口からゆで卵が出た。

天使かと見紛うほど愛くるしい我が弟に恋人(男)が出来た。
非常に由々しき事態である。看過できない。下手を打てば太陽が粉砕しかねない。

一体どこのどいつであろうか、我が弟に手を出すなどと愚行を働いた不届き者は。塩辛にして食ってやりたい。
よりもよって恋人とは。
―――恋人。
それは僕が遠い昔若かりし頃に自ら手放した胃が弛みそうな甘酸っぱい響き。
勉学が学生の本分であるからと我が弟が健気にも塵箱の底に沈めた桃色単語。
日下家には今まで入る余地もなかった神秘のベールの向こうに存在すると伝えられているけしからん名詞である。辞書には載っていない。

僕が心の臓よりも金の玉よりも大切にしている最愛の弟、うみは楊貴妃もかくやという程の美しさとナポレオンよりも雄々しい心根を持つ、いっそのこと食べちゃいたいくらいに愛くるしい不思議生命体である。きっと神様だとかお釈迦様だとかが毎日必死にまるで飢餓寸前の虫けらのように生きる僕に遣わして下さった天使だとかケセランパサランだとか、とにかくそういうふわふわきらきらしたものに違いない。
僕はうみほどに素晴らしい人類を天国の父と母しか知らない。
同じ腹から生まれ共通の遺伝子を所有する僕とうみであるがその魂の純真さにおいて天と地、月と鼈、セスナと紙飛行機くらいの差がある。
蛇足であるが僕は弟のうみと比べるまでもなく頭の先まで社会という汚泥にたっぷりと漬かった完全なる人間の屑だ。後悔も反省も生きるのに必死でしたことがない。

うみの恋人―――。
しかも男。しつこいようであるが男である。さりげなさを装って本人に20回ほど真偽の程を問い質してみたが聞き間違いではなかった。
愛すべき我が弟の恋人は股の間に情けなく急所をぶら下げた汚らわしい人族人科の雄なのだ。
なんということだろう。卑しい蛮族の馬の骨が、身の程知らずも甚だしい。
僕は同じ種族の雄として尻の底から軽蔑する所存だ。
純真清廉なうみを卑猥な考えで汚しおって、まるで人の所業とは思えない。極悪非道、悪鬼も怯える行いである。ああ、恐ろしい。
「…でね、俺、兄さんに相談したい事があるんだ。」
「う、うん?なんだ?」
「実は…彼氏が浮気、してるみたいで…、」
な、なんたる侮辱であろうか。
僕は机の下の左手を掌の皮膚を爪が突き破ってだらだらと血液が垂れ流されるくらいに握りしめた。
なんということだろうか。人を人とも思わぬ所業である。
あどけない赤子の姿をした天使よりもまだ愛らしい我が弟を捕まえて神をも恐れぬ行い。
「兄さん、俺、どうすればいいと思う…?」
うみがそのくりんくりんとした可愛らしい瞳をこれ以上ないほど潤ませて僕を見る。
正直、色恋のいろはを聞かれてもありとあらゆる潤いというものがあと一歩で砂になる寸前まで干からびきった僕にはとんとわからないが、浮気などという破廉恥極まりない行いをする真っピンクの下着を着ていそうな男など、どこからどうみてもうみには全くもって相応しくない。
僕はうみに暖かいミルクを飲ませ、ちょちょぎれてしまっていた真珠のように煌めく俗に涙と呼ばれるあの液体を指先で拭ってやりながらにっこりと微笑んだ。
うみは僕の笑顔に安心したのか口元を穏やかに緩ませつつ言った。
「でもね、それでも俺は、あの人の事が好きなんだ。」
―――そういわれては、僕にはその男をぶちのめすことさえ出来ない。なんて情けない兄だろうか。こんなにもいじらしく泣く弟を前に、慰める事しかできないとは。泡立たないスポンジよりも役に立たない。もはや不要である。ハンカチを噛み締めたくなるほど悔しかったがうみの前でそのように情けない姿は晒したくなかったので、僕は垣間見える犬歯が眩く光る笑顔をうみにむけて当座を凌いだ。気を抜けば鼻水が垂れてきそうだった。


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