雑誌を読み耽る謙也の、おもむろに投げ出していた右側の手が、隣でペットのイグアナを構い倒していた彼女の左手の指先に触れた。気にせず今春のトレンドとやらが特集されたページを捲る。
 はっきりとした色味を好む謙也としては、この春男子の間でも流行するらしいパステルカラーは、中々勇気のいる色だ。いやいや、けれどもパーカーの下に着たり制服の襟ぐりからわざと色合いを見せるためのシャツや、靴下やスニーカーあたりになら取り入れるのも簡単かも。なんて、全て買える程の持ち金も無いくせにあれやこれやと妄想に入り浸っていれば、何やら右手の中指がもぞもぞとこそばゆいのに気が付いた。
 右手に視線を落としてみると、褐色の長い手指に携えられた、短く切り揃えられた桜色の小さな爪が謙也の中指の上を擽るように幾度も滑っていく。
「……千歳?」
 小さく彼女の名を呼べば、ぬばたまの大きな瞳が、ひたりと向けられた。ぴた、と止まった悪戯な爪先は、中指の付け根、薬指との間の、水掻きに緩く刺さる。
 痛みは無い。ただ、ちりちりとした、静電気のような痺れにも似た小さな刺激は、何処かもどかしかった。深い夜空を宿した瞳は熱を帯びていて、謙也はそこから目が話せなくなる。ふっくらとした、桃の花にも似た色をした唇が薄く開いて、
「謙也くん」
 女の子にしては低い彼女の声が、囁くように自分の名を紡ぐ。耳朶を擽るアルトがじわりじわりと脳を揺さぶり、ちりちりとした刺激が、熱を帯びた瞳が、身体中の血液の循環を速める。

 きっかけなんて、想い合う若い二人にはたったそれだけで十分だった。

 高校に進学したからといって、生活は中学の頃とそう変わりない。
 高校に入ったら、バイトを始めて程々に小金を貯めつつ、趣味の延長のような、規律も部員の参加率も緩い軽音部あたりに入部しよう。部活動に心血注いだ中学時代から一転、青春をエンジョイしよう。そう思っていた筈が、どういうわけか、結局関西の雄と名高い某高等学校テニス部に入部してしまったあたり、謙也も根っからのテニス馬鹿だった。
 無論、当初の予定にあったバイト云々は、ただでさえハードな運動部、その上、二年にして強豪校のレギュラーに食い込めた身としては早々に諦めざるを得なかった。お陰で未だ母親の財布から手渡されるという、月一の小遣い制である。
 そんな一介の高校生に過ぎない謙也にとって、やれ学会だ旅行だ合宿だと、家族が揃って留守にしているこの夜は、付き合って二年が経とうとしている彼女を持つ身としては、非常に大事な夜だった。
 所謂「やりたい盛り」のお年頃。反面、プライバシーなどあって無いような実家暮らしの謙也と、そもそも男子禁制の寮住まいである千歳、そしてホテル代の捻出も不可能な現状に悶々としていたのは、何も謙也だけではない。

 その夜、二人は幾度となく互いを求め合った。

「寒くない?」
 冬をとうに越えたとはいえ、未だ肌寒い春の宵。この季節に相応しい柔らかな光を放つ月ばかりが、ぼんやりと室内を照らす。今日という日のために張り切って干した、陽だまりの匂いのする布団に潜る謙也の腕の中には、少女の細くも柔らかな身体があった。
 つい先頃までの情交の名残りで、熱やら汗やら、とにかく少女の火照った身体が冷えてしまわぬようにと、暑い暑いと嫌がるのを聞き流し、パジャマ代わりのスウェットの上を羽織らせて、シーツの海で掻き抱く。
「暑っ……謙也くん苦しかぁ……」
 千歳はというと、そんな文句を垂れつつ、
「ばってん、謙也くんの匂いがしちょるね」
 なんて、安堵しきったかのような、ふにゃりと気の抜けた笑顔を浮かべる。
 自ずと高鳴った鼓動は、互いの胸と胸とがぴったりと合わさっているせいで、気付かれてしまったかもしれない。いやしかし豊満すぎる乳房のせいで恐らくはばれていない筈だと、己の胸板にむにゅっと押し当てられて潰れた柔肉をちらりと視界に映した。ついさっきまで飽きるほど弄り倒したというのに、改めて目にしたそこに、いつのまにか咥内に溜まっていた唾液をごくりと嚥下する。
「……謙也くん、やらしか」
 そんな謙也の不埒な視線に気付いた少女が、眉を下げて、困ったような、拗ねたような口調で呟いた。ハッとして、次いで思いきり赤くなる。
「す、すすすすすまん……!」
「うわ、」
 慌てて謝った謙也は、その場所がなるべく目に入らぬようにと、彼女のことを、ますますぎゅうと抱き締めた。
「痛かあ」
 言葉と裏腹に、くすくすと楽しげな声が腕の中で響く。
 甘ったるくてこそばゆい、けれどとても心地良い。恋人たちの睦言はそうして夜に溶け、やがてはふたり揃って眠りに落ちていく……と、謙也はひとつも疑うことなく、そう思っていたのだが。

「そんで、あん頃の桔平っちいえばほなごつ短気なガキんちょやったけん、うちなんかよりずーっとやんちゃもしとったと!」
「……ほお」
 ひとつの布団の中で互いの体温を分け与えるかのように抱き合って、こんなにも近くで見つめ合って、言葉を交わす。書き連ねていけばどう見ても甘い情景である筈が、会話の内容はコレである。
「昔はしょっちゅう一緒んなって授業ばサボって、ふたりでテニスばっかりしとったばい」
「……へえ」
 悦楽に鳴きすぎたがために少し掠れてしまった声音は、艶めく甘露の如きそれなのに。
(なんっで寝物語にまで橘の話聞かなあかんねん……!)
 腕の中で千歳が話すのは、かつて九州に二翼あり、と、彼女と対で讃えられた少年のことばかりだ。不機嫌さを懸命に押し殺しながら聴いていれば、揃って九州で名を馳せていたのはもう二年も前だというのに未だ親交の深すぎるこのふたり、千歳の語るところによると、「最早腐れ縁で兄貴のようにも弟のようにも感じられる桔平」と、珍しいことに喧嘩をしたらしい。とはいえ、どうやらいつもの彼女の放浪癖を、いつもより少し強い口調でもって叱りつけた橘に、千歳が一方的にむくれているだけのようだったのだが。
「寧ろ桔平のが『良か場所見つけたけん、お前も来んね』なんち悪か顔で笑っとったのに!」
(だから何や)
「今より断っ然話の分かった桔平は何処行ったとや!」
(知らんは、そんなん)
「真面目なんは良かこつばってん、電話口出て早々『千歳!』なんてちっともむぞらしくなか低か声で人ん名前ば呼んで小言ば言うけん、男子高校生っちゅーよりまるでお袋ばい!」
(そら仲のよろしいことで)
「あぎゃん成長しよるんなら、ずーっとあん頃のまんまの桔平だった方が世のためうちンためったい!ね、謙也くん!」
(……なるほど分からん)
 すっかり身体が冷えてきたのか、自分に甘えるように擦り寄ってきておきながら、話す内容はそれか。興味も湧かなければ、同意すらもしたくない。元々つり気味の目の下が、ぴくりと引き攣るのが分かった。
「謙也くん、聞いとっと?」
 常ならば微笑ましげに彼女の話に相槌を打つ謙也がむっつりと黙り込んでいたことで、流石に心ここに在らずなのがばれてしまったらしい。千歳が訝しげに覗き込んでくる。しかし謙也は、すまんと笑って謝ることが出来るほど大人でもなければ、もう一度話してくれなんて促せるほど広い心を持ち合わせているわけでも無かった。
「謙、」
「うるさい」
 すげない態度に一言物申してやろうとした千歳の視界に、ふっと陰が落ちる。布団の中で身を起こした謙也が、上から覆いかぶさっていた。
「いつもならとっくにガーガー寝とる癖に、今日はちぃとも眠れへんらしいな」
「謙也くん……?」
「丁度良えわ。俺もさっきっから耳元でうるさくて、しゃーなかったんや。お陰さんで目ぇ冴えてしもて」
「けん……んっ、」
 見上げた瞳が、何故だか冷たく煌めいる。呆然とした頭でそれだけ考えていた千歳の唇を、熱く滑った舌がべろりと舐めた。ぴくん、と細い身体が跳ねる。
「眠れんなら、付き合うたる」
「えっ、え、え、……っきゃ、」
 少年の大きな手、その片方が、千歳の手首をあっという間に頭上で一纏めにし、いとも容易く押さえつけてしまう。
「っ、ちょっ……あっ!」
 満足に身動きのとれなくなった身体に、謙也の空いている方の掌が伸びてきて、無遠慮に布地の上から胸を鷲掴んできた。
「ひ、う……っ、あ……?」
 躊躇もなく勢い良く乳房に触れてきた手指は、しかし思いの外やわやわとそこを揉みしだく。緩やかな刺激はもどかしく、千歳は思わず身を捩った。
「ん、っ!」
 指先が胸の突起を掠めた途端、身体を微弱な電流が駆け抜ける。
──この感覚は、よく知っている。「これ」はいけない。静まっていたはずの熱が、呼び戻されてしまうから。
 声を出せば悦びしか漏らしそうにない唇を必死に閉じて、もうこれ以上は無理だと左右に首を振って拒否を示す。謙也は、恐らくそんな千歳の気持ちは見越している癖にわざと気付かぬふりをして、華奢な首筋に顔を埋め、そこに強く吸い付いた。
「っ、んんぅ……っ!」
「まだ、足りひんやろ?」
「そっ……な、ちょっ、待っ……あ!」
 不埒な手は止まるどころかスウェットの裾から潜り込み、肌を直に弄ぶ。
「ん、ぅ…っ、は、」
 ふにふにと素肌の胸の感触を楽しんでいる掌は、一向にそこから退く様子がない。が、ふいに両手首を抑えている方の手の力が抜けて、謙也が身を起こすような素振りを見せた。少年が離れていく気配に、千歳は今だとばかり、のし掛かる彼の下から抜け出ようともがいた。

「あっ!」
 しかしながら、成長期も終わりかけの、「少年」から「男」に変わりつつある身体は、少女の抵抗など物ともしない。千歳の細腰は、程良く筋肉のついた逞しい腕によって、がっしりと抱え直された。
「や、いや……っ、ほなごつ、も……無理っ……!」
「嘘。さっきまであんなに元気良う喋っとったやん」
 何も身に付けていない下半身に、熱く硬く息衝くものが触れる。
「いやっ……!あ、っ──……!」
 ぐつりと粘着質な音がして、同時に空気を切り裂く筈だった悲鳴は、謙也のかさついた唇に飲み込まれた。


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