僕らは太陽に隠れてキスをする/前編
濡れた髪を拭きながら、バスルームを後にする。
下を向けば、吸収しきれない雫が毛先を伝う。
…やべ、床に落ちた。
後で拭いとかねえと。
リビングの扉を開けると、さっきまで寝室で眠っていたはずの彼女が黒皮のソファーに座って目を擦っていた。
「悪い、起こしたか?」
『ううん、大丈夫。お疲れ様』
コーヒー入れるね、と立ち上がった彼女をぎゅう、と抱き締める。
そのまま頭を撫でてやると、腕の中の鵺雲がふにゃあ、と笑ったのがわかった。
『一護さん』
「こら。さん、はいらねえっつったろ」
髪を撫でていた手を彼女の額へと移動させて、少しだけ力を込めて俺の方を向かせる。
ハッとした顔で俺を見つめて視線を彷徨わせたあと、一護、と控えめに俺の名前を口にした。
呼び捨てに慣れてないのか、それとも俺だから呼びづらいのかはわかんねえけど。
どちらにしろ戸惑う彼女の姿に俺の心は鼓動を速めていく。
額に添えていた力を弱めれば、彼女は再び俺の胸に顔を埋めて。
「どうした?」
『いい匂いがします。…落ち着く』
「別にいつもと一緒じゃねえのか?」
『でも落ち着くんです。なんていうか、眠くなるような、安心する匂い』
「そうかよ。…そいつはよかった」
猫みたいにすり寄ってくる鵺雲に、自分の口許が緩んでいることに気づく。
こいつの傍にいる時だけ感じられるこの安心感は、鵺雲への、想いの表れなんだろう。
******
「一護、今日こそ付き合え」
「やだよ、めんどくせえ…。俺最近休みねえんだからな」
その日も、俺は同僚の修兵からしつこく誘いを受けていた。
スタッフルームのソファーにもたれかかってだらりと腕を投げ出す俺を覗き込んで、にしし、と笑いかけてくる。
右目に傷があって左頬に卑猥な数字入れて(しかも目つき悪ぃし)、ぱっと見ソッチ系の顔だけど、間近でこんな風に微笑みかけられれば、客がこいつに夢中になるのもわかる気がする。
今の俺にとっては、ただウゼえだけだけど。
つーか、こいつも俺と同じくらい連日出勤だというのに、何でここまで元気なんだよ。
「知ってっか?今日うちの近くに新しいキャバクラオープンすんだって。お前が顔出しゃ、盛りあがんじゃねえの?曲がりなりにもお前、ここら一帯じゃ一番の有名人なんだからよ」
「別に知らねえよ…。別になりたくてなったわけじゃねえし、実際ナンバーワンなんてどうでもいいんだよ」
「お前相変わらず欲がねえな…。溜まんねえの?イロイロと」
「うっせ。お前と一緒にすんな」
「俺は自分に素直なだけだぜ、一護ちゃん?…ま、だからナンバーワンなんだろうけど」
俺が今働いてるココ。
生存競争の激しいこの地区で、連日満卓なんてのはウチくらいかもしれない。
だからそんなトコで働いてて、しかもナンバーワンなんて肩書き背負ってる俺が行くなんて言えば、そりゃ盛りあがんだろうけど。
正直なんで俺がナンバーワンなのかわかんねえ。
そんなつもりもなかったし、ある程度の金額がたまれば辞めてやろうかとも思っていたのに。
「とにかく、もう電話して予約入れといたからよ。花束も頼んどいたし、偵察も兼ねて途中で強制連行な」
「はあ!!?お前莫迦じゃねえのか…」
なんて強引なヤツなんだろう。
最初からNoと言わせないつもりだったってワケか。
もう予約まで入れられてしまったといえば、断るにも断れない。
店の名前も評判も、落とすわけにはいかねえから。
仕方ねえな、と再び溜息を吐き出した俺に、修兵は煙草を差し出した。
******
本当はラストまでのシフトだった俺と修兵を、店長自ら送り出す。
しっかり偵察してきてくださいねぇ、なんて扇子振ってたけど、うちの店は大丈夫なのかよ。
やっぱりあの人の考えは読めねえな。
新装開店だというのに、そこはやけに盛り上がっていた。
系列店から何人か引き抜いたこともあって、そのキャストの客がほとんどこっちに流れ込んでくる。
別に俺たちがわざわざ出向く必要もなかったんじゃねえのか。
店内に入れば、眩しいくらいの装飾。
自分の店で慣れてるはずなのに、どうもキャバクラの光は苦手だ。
「いらっしゃいませ」と共にあがる、俺と修兵を呼ぶ声。
その中に紛れて、嘘ー、とか本物ー、って声が聞こえる。
どうやら俺たちの予約を知らなかったキャストもいたみたいで、騒がしかった店内がより騒がしくなった。
「よぅ、一護。修兵さん」
店長自らお出迎え。
相変わらず嘘みてえに赤い髪の男が、俺たちの前に立って笑っている。
昔からの知り合いのこいつも、変な刺青入れてるし無駄につっかかってくるけど、信頼の厚い男。
「大盛況みてえじゃねえか。偵察しがいがあるってもんだ」
「そういうことは表立って言わないでくださいよ。俺一応店長様なんで」
席用意してあるんで、と言う恋次についていけば、店の奥のVIP席に通される。
「いらっしゃいませ、一護さん。セナです、ほら、前のお店で。覚えてますかぁ?」
「あぁ、前もついてもらったっけか」
「修兵さん、今日はピンク入れてくださいね」
「ま、お前次第じゃねえの?」
フリーで入ったとはいえ、俺たちのテーブルにやってきたのは他店でナンバー入りしてたキャストたち。
俺の隣のセナも、他の店で俺についたことがある。…気がする。
そりゃ有名店のナンバーワン・ツーが揃って来店したとなりゃつかざるを得ないのだけれど。
開店祝いっつーことで最初からフルーツ盛りを入れてやれば、口々に発せられる甘ったるい声。
仕事柄慣れてはいるから笑顔を向けてやることはできるけど、どうも素直に楽しめないのは職業病ってヤツか、それとも。
「おい一護。オメー顔が引きつってんぞ。うちのナンバーワン候補じゃ不満か?」
「そうじゃねえよ。接客は何の問題もねえし、不満を見つけろって方が難しいな」
「そうか。…じゃあオメーにいいもん見せてやるよ」
ククッと喉で笑った恋次が、近くのボーイを呼んで何か耳打ちをする。
次いで俺の耳元で「オメーがこういうのに疲れてることくらい、バレてるっつの」なんて、まさに核心をついてくる。
明らかに修兵とテンションの違う俺に、気づいていたらしい。
こういう時、知り合いだと助かる。
『失礼します』
「おぅ、来たか」
恋次がやってきたキャストを手招いて近くに呼び寄せる。
化粧もして、高ぇヒールはいて、見た目は完璧キャバ嬢なのに、どこかキャバ嬢らしくない。
それが、鵺雲だった。
「鵺雲、オメーこいつにつけ」
『ヘルプでよろしいですか?』
「いつ俺がヘルプっつったよ。俺はつけって言ったんだぜ?」
『え、あ…の、私で大丈夫ですか?』
「大丈夫だから呼んだんだろ」
ほら、と彼女の手をつかんだ恋次が俺の隣に座らせる。
俺の方を向くなり、にこっと笑って。
『鵺雲です。あの、お名前お伺いしてもいいですか?』
そう言った。
沈黙が流れるテーブル。
まさか訪れるとは思っていない沈黙に、彼女はきょとんとして。
『え、私なにか聞いちゃいけないこと…』
わけがわからない、と俺と恋次の顔を交互に見る。
俺の隣にいたセナが慌てたように鵺雲を睨んで。
そしてその隣の修兵は、へぇ、と物珍しそうに鵺雲を見つめて。
次の瞬間、俺と恋次が同時にぶはっと吹き出した。
「ほらな、いいモンだったろ?この様子なら、オメーも満足できんだろ」
「違いねえ、まさかこう来るとは思ってなかったな」
そう。予想外だった。
今時、しかもこの地区で、俺を知らないヤツがいたなんて。
作法とか話し方とかから見ても、ド新人ってワケでもないだろうに。
顔を真っ赤にしてごめんなさいって謝る鵺雲に、俺は今日初めて素直に笑った。
俺を知ってるヤツは、少しでも気に入られようとやたらと媚びを売ってくる。
俺を持ち上げて、やたらと褒め上げる。
そうすれば売り上げも伸びるし、この地区で生きていく為の強い後ろ盾になるから。
それが、普通だった。
けれど、鵺雲は違った。
俺の話を、ちゃんと聞いてくれた。
だから意見が合う話もあれば、全否定される話もあって。
不思議と悪い気はしなかった。
こうやって話を聞いて、反応してもらえること。
それだけでよかったから。
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