○紅さし指/野永 創
「ぼくね、手相をみるのが得意なんだ」
そう言うと、蜂村は患者である梅原の左手をそっと取った。
眼科医であるのに、蜂村は目ではなくて手に興味を持ったようだ。
「あの、俺はコンタクトレンズをつくりに来たんですけど‥‥」
梅原は、自分の手を触っている若い眼科医に言う。
「あとでちゃんとつくってあげるから、いまは手を見せて」
「はぁ‥‥」
手相、と蜂村は言ったが、手のひらではなく手の甲ばかりを見ている。
爪を撫でたり、関節を折りまげたりして、とても手相をみているようには見えない。
「梅原くん、だっけ。歳はいくつ?」
「俺は二十五です」
「ふうん。ぼくと十歳も違うや」
「蜂村先生、お若いですね」
梅原のこの言葉に、蜂村は顔をほころばせた。
「若いかー。嬉しいなぁ」
左手を撫でるのをやめない。
「先生、ここを開業されたんですよね。その歳で個人医院をやるなんてすごいですよ」
「褒めても診察代は安くならないよ」
薬指の爪を撫でている。
「俺の友達に医者を目指してる奴がいて、蜂村先生と歳が近いのにまだ研修医をやってるから、普通にすごいなって思っただけですよ」
「年齢は関係ないよ。お友達は大器晩成なんじゃない?」
薬指の付け根から爪の先をゆっくりと撫でている。
これに梅原はさすがに、
「あの、なにしてるんですか。手相をみるんじゃないんですか?」
と訊いていた。
「ぼくはね、ひとの薬指が大好きでね。綺麗な指を見ると触らずにはいられないんだ」
「は?」
薬指を撫でながら、蜂村は声を酔わせて言う。
その蜂村の声音と表情がどうにも怖くなり、梅原はとっさに手を引っ込めようとした。
「ダメだよ梅原くん。君の指をもっとよく見せて」
ものすごい力で手首をつかまれた。
「――っ」
「綺麗な指だねぇ。なんて綺麗なんだ。細くて白くて長くて華奢だけど、骨張ってて魅力的だ‥‥ぼくもこんな指になりたいなぁ」
言いながら、自分の鼻に梅原の薬指を近づける。
すう、と匂いを嗅ぐ。
蜂村の様子に、梅原は声が出せない。
次第に、つかまれている手が震えてくる。
「あれ。どうした? 寒い?」
梅原の目を覗き込む。
「あの、俺、用事を思い出したから、すぐに帰らないと‥‥」
左手に力が入らない。
力を入れようとすると、それが震えとなって表れる。
「そんな嘘、判りやすいよ。コンタクトをつくりたいんでしょう? つくってあげるから、もうすこし待ってなよ」
蜂村は、梅原の薬指の先をほんのすこし舐めた。
「!」
「ふふ。診察代は要らないから、代わりにこの薬指を頂戴?」
「ちょっと、あんた頭おかしいんじゃないのか!?」
瞬間、蜂村は目を剥き、梅原の喉元をぐっとつかんだ。
「黙れよ。おとなしくしとけ」
低い声だった。
蜂村の白衣から、かすかに煙草の香がした。
しばらく無言で睨まれ、
「暴れると痛くしちゃうよ?」
そう言った蜂村は、にこにこと笑顔だった。
梅原の喉元を放し、優しい手つきで左手の薬指を撫でる。
まるで、愛しい者との誓いの時のよう。
「いいねぇ。良い指だ。ぼくのこの手でプラチナのリングをはめてあげたいよ――」
梅原の薬指は再び、蜂村の口元へ運ばれてゆく。
「痛くしないからね」
上目遣いで蜂村はそう言った。
次の瞬間――
薬指は、付け根まで蜂村の口に飲みこまれていた。
口内の熱を感じたと思うや否や、梅原は激痛に襲われる。
「いぁっ」
梅原が小さく呻くと、蜂村は左手を解放した。
蜂村の口からは血が流れている。
口の端から、爪が覗いていた。
――爪?
ゆっくりと、梅原は自分の左手を見た。
中指と小指の間、ぽっかりと空いている。
血が溢れ出している。
驚きのほうが大きくて、痛みを感じる暇もない。
梅原の見ている目の前で、蜂村が自分の手になにかを吐き出した。
細くて白くて長い、骨張ったもの。
それがいまでは唾液と赤いものにまみれている。
「血にまみれると本当に綺麗だねぇ。美しいよ――」
恍惚の表情で蜂村は言う。
吐き出したものを着ていた白衣のポケットに入れると、
「さ、視力検査をしよう。右目から隠してくれるかな」
蜂村は、遮眼子を梅原に差し出した。
了