○栞紐/野永 創

 ぼくは、あなたに本を返し忘れました。

 昨夜、気がついたんです。

 厳密に言えばあなたの本じゃなくて、図書館の本でしたね。

 そうそう、あなたは図書館の司書さんでした。

 ぼくは読書なんて好きじゃなかったけど、あなたのことが好きだから、あなたが薦めてくれた本を借りて読みました。

 正直、内容とかよく判らなかったし、感想を求められてもあなたの望むようなことは言えないかもしれません。

 でも、あなたのことを考え――想いながら読んでいったら、その読書の時間がとても有意義なものになったんじゃないか、って思うんです。

 たとえ、ぼくにとってなんの収穫にならなかったとしても、あなたのことを考え、想っていたという時間がぼくには大切なことなんです。

 ねぇ――

 あなたは‥‥須堂さん‥‥あなた、いまどこにいるんですか。

 ぼくは、あなたに本を返したい。
 
 同じ男として尊敬するし、人間として好きだし、傍に居たいし。

 もう、今生で会うのは二度と無いとして、それでもぼくはあなたに会いたいんです、須堂さん。

 本を返し忘れたのはたまたまだけど、もしかしてぼくは無意識のうちにあなたに会う口実として、返却し忘れたんじゃないかって思うようになって。

 それほどまでに、あなたのことを想っているんです。

 図書館から借りた本なら、図書館へ返せばいいじゃないかって思われるかもしれませんが、それでは意味が無いのです。

 須堂さん、あなたに直接返さないと意味が無いのです。

 ぼくの気が済まない。

 図書館から借りたというよりは、あなたから借りたという思いが強いんです。

 実際、ぼくにぴったりじゃないか、とあなたが直接もってきてくれた本じゃないですか。

 返却期限は昨日の日付で、気がついたのは昨夜で、もう図書館は閉館してました。

 だから、今日の朝、開館と同時に行ったのにあなたは居なかった。

 ほかの職員にあなたは休みかどうかを訊ねたら、

 「そんな人、働いていない」

 って睨まれたんです。

 変な話でしょう?

 よく一緒に借りに来ていたほかの人にも訊いてみたけれど、誰もあなたのことを知らないと言う。

 おかしいと思いませんか?

 あの図書館に居た誰もがあなたの存在を忘れているんです。

 そんな哀しいことがありますか?

 あなた‥‥須堂さんのような素敵な人のことを忘れてしまうなんて。

 ぼくはとても憤ったけれど、すぐに別の考えが浮かんで笑顔になったんです。

 ぼくだけの、あなたになった。

 ほかの人の記憶から消えてしまっても、ぼくの記憶のなかには居る。

 ぼくの記憶のなかだけに居る。

 その存在は決して揺るがない。

 ぼくだけのあなたになったんです。

 あなたがしてくれる、いろんな本のはなし。

 ぼくにとって本はあなたに逢う口実にしかすぎなくて、楽しそうに話してくれるあなたの声、表情、それらを傍で感じていたいんです。

 あなたが貸してくれたあの――この本。

 なにが言いたい本なのかさっぱり判らなかったけれど、この本の一頁一頁、表紙やこの紫色の栞紐にあなたが触れたかと思うと、いまぼくがこうして同じものを触っていること、本当に嬉しいんです。

 ぼくがこうして触ったものを、あなたがまた触れてくれると考えたら、夜も眠れません。

 この本を返しにあなたに逢いに行ったとして、もしかしたらあなたは、

 「その本は君にあげるよ」

 なんて笑いかけてくれるかもしれませんね。

 その声色と表情、眼尻のシワを想像しただけでも、ぼくの心臓は高鳴ります。

 ぼくより九つ歳上のあなた。

 いまぼくの傍にあなたがいたら、この鼓動を聴かれてしまいそうで、さらにドキドキします。

 ねぇ――

 ぼくは、あなたに本を返し忘れました。

 昨夜、気がついたんです。



 了

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