「――それでは今日も、皆さんが無事で一日過ごせますように……」
雑音混じりのラジオが、今日もまた同じ言葉で番組を締める。この言葉になって、どれだけの日数が経過しただろう。 以前は、「良い一日を!」や、「頑張ってください!」のような爽やかさの押し売り満点なものだったはずなのに。随分物騒になったものだと思いつつ音を消す。まぁ、前も別に平和とは言い難かったが、ここまででもなかっただろう。 手元にある拳銃は、その緊張するような空気感を露骨に表現する。 でももう、だいぶ慣れてしまった。そんな適応性の自分に恐怖する時もある。でも。自分、というよりは適応能力のある人間自体に恐怖する方が近いもしれない。 僕だけではない、皆、慣れたから。 でも、気を抜くことはおそらく不可能である。僕の置かれている状況は、室内であっても比較的危険であるから。だから僕は今日も自分から拳銃を離せない。 満たされるべき、食卓のこの場であっても。
「ガル……グルルルル……」 ぐちゃぐちゃと汚らしい音と、言葉にならない声をたてながら、向かいに座る男は食事の肉の塊をむさぼる。僕はそれを、ただ頬杖をついて見ている。見たくて見ているわけではないが、目を離して、気を抜いていられないからだ。 半分ほど、その肉を骨の姿にすると、口のまわりに血をつけた顔を僕に向ける。 「……ビビ……。……ビビ、一緒ニ……コレ……食ウ……?」 何とか言葉として聞きとれる程度の、たどたどしい喋り方。 ビビと呼ばれた僕は、そう呼んだ奴に、僕は手で払いのける仕草を向ける。 「いらねぇ。それはお前だけのメシだ。腹いっぱい食いやがれ」 「……グルルルル……」 人間の声より獣の声。でも、もっと、ただの音に近い返事。いや、返事でもないのかもしれない。 生きる死体となったお前は、もうこの程度しか僕と会話が出来ない。 いや、逆に奇跡なのだろう。ゾンビのくせに、僕とまだ一緒にいれることが。 何度もそう思いながらつく溜め息の回数は、もう忘れてしまったよ。
――親友よ、そのメシは美味いかい? 返事を求めず思ってみたが、虚しさが増幅するだけだった。
その肉塊が微かな量になった頃。僕は立ち上がりつつ、その死体に話しかける。 「ジグ、今日僕出掛けるから。留守番させるから」 げふりと臭いげっぷ音をさせた後、ジグはほんの少し首を傾ける。 「買イ物……?」 「大体そんなところだ」 「分カッタ……」 死んでいるくせに、寂しいも何もないだろと思う僕がおかしいのだろうか。白い、血の色皆無の肌の色が更に青みを帯びたような気がする。そう思われて、気持ち悪いけど気持ち悪い。 でも見捨てられないのは、……俺が弱いから? 笑うなら、笑ってくれ。見知らぬ誰か様。
もし僕が留守の間に誰かが来てもその人をジグが襲わないように、そして誰かがジグを退治しないように。手錠と足かせをかけ、扉は幾つもの鍵で頑丈に。人を襲う、空腹という情動が無いように奴が食う肉も適当に置いて。 国やら街やらから貰った大量の銃を積んだ車で、車庫から。 少し、今日も覚悟を決めて。
○
……腐っているなぁ、と。今日も僕は呆れ果てる。 それは直接的腐臭と同時に、人間自体の性質もだった。 ゾンビがまた闊歩し、倒されたゾンビが転がり。それが大抵の原因だ。あと、放置された家畜とかだろうか。最早、それさえ気にする気持ちにもならない。 元々この地域に住んでいた人間はもうほとんどいなくなってしまった。そして此処に代わりにきたのは報酬が良いから。とどこだか知らない民族の人間ばかり。自称・ゾンビハンター。嗚呼、阿呆臭い。気色悪い。むしろゾンビ以上に精神的に不快だ。 元々住んでいた人たちの行方? さぁね。その大半が逃げ出し、大半がゾンビになってしまったよ。 でももうその逃げ出した人もどれだけ生還しているか分からない。その全てもゾンビになったかもね。僕のように一部残る、幸運なモノズキもいるけれど。
どっかの誰かがどこか触れてはいけない森林の奥から、触れてはいけない病原菌だか何かを目覚めさせたんだか、それともどっかの機関の科学平気やらなんとやら。 正確な情報何て、何一つ分からない。これはそれが徐々に広がっていったあくまで結果。いや、結果でもないのか。どこを終わりと言ったらいいのやら。 金持ちは自分たちを隔離する都市を作ったとラジオは語った。 僕らは、金持ちじゃなかったしね。此処に住んでいた人たちは裕福な暮らしでは決してないけれど、十分に、不自由はほとんどなく暮らしていたはずだったのに。恨む相手の姿は、僕らには見えない。分からない。
酷い、話だよね。 時は、戻せないし。 仰々しいマスクを着けて車を降り、すぐに銃口を構える。 撃ち抜いたそれに、僕は何の価値も見いだせない。 討伐人数を競う輩が僕の討ったそれを拾って逃げる。そんな奴ほど、撃ち抜きたい。だけれど、それをしてしまうと僕こそ人でなくなってしまいそうだ。 マーケット崩れで、自分の食べるだけの数日分の食料と最低限の生活用品を受け取る。食べ物も、最近は固形ばかり。自分こそ、乾燥していくような心地だ。 気のない溜め息をマスクの下で吐き、店の外に出て。 その辺をふらふら歩いている家畜のゾンビを捕らえて帰る。これはジグのメシだ。 互いにゾンビということを除けば、中々良いメシだなぁと思ったが、いや。何もいうまい。 雑に車に詰め込んで。運転席でマスクを外した。 ある意味家より落ち着ける空間かもしれない。 そのまま身体が脱力して、顔でクラクションを押していた。
ハンドルにしばらく顔を置き、涙に気がつくまで時間がかかった。 もう、この生活も習慣になって慣れてきたと思ったのに。 何だか今、凄く、凄く虚しい。 必要以上に気が抜けてしまったのか。 数分間だけ、意識が遠のいてしまっていた。
その行動に厭きて、否、周りの音のせいで顔を上げると、車の周りがゾンビだらけになっていた。 手や頭で奴らは僕の車を叩いて、壊そうとしている。 一応、普通の車よりは丈夫だが、少し不穏な音がしないでもない。 何だか、怖いというより笑えている自分がいた。
「そうだなぁ……、どこぞのB級映画、みたいだ」
ここで終わっても、まぁ別にいいのかなとも思ったけど、気になったのはやっぱりジグのことで。 アクセルをこれでもかと踏み込み、車は色んなものをなぎ倒していた。
○
「……ただいま」 「オカエリ?」 色んなものに汚染された車をそのまま車庫に戻し、部屋に戻る。 用意しておいた肉には、少し齧った形が見られた。 自分にかけられたその一言に、今日もちゃんと帰りを待っていてくれたんだと思ったら。 ジグの胸に倒れ込んでいた。 それは何だか、生っぽいのに骨っぽくて。 「ビビ?」 「……もうさ、終わっていいかな……。何か、急に疲れた」 「ドウシタノ……、ビビ……」 その心配そうな声に、もうどうにも我慢が出来なくなった。 既に消失したと思っていた感情が暴走する。 言っても無意味だろうと思って耐えてきた言葉が、喉で止まらなかった。
「――ビビじゃねぇし……! 我慢してたけど、ビビは僕じゃねえ!」
ビビは、僕の、妹の名前だ……! ゾンビになって、誰かに撃ち殺された僕の妹だ! もう、ただただ涙ばかりで、続く言葉が音にならない。 その脆い身体を、感情に任せるまま殴った。 殴った。 殴った。 ジグは、何も言わない。 ただ、僕に殴らせていた。 そして僕が疲れた頃。 頭の上で、溜め息が聞こえた。
「――全く。さっさと俺を置いていけばいいのに」 「……?」 それは、生前と同じような。 聞こえたのはジグの声で。 頭に、手が乗る感触がある。
「――俺も知らなかったけど、食で満たされるって凄いな。ゾンビなったのに、いつからか普通に意識があったよ」 そう言いながらのその笑みは、生前と同じだった。 いや、多少は顔形崩れてるけど、笑み方が。 「……はい?」 数歩距離をとり、その顔を見る。 「何だそれ。……は?」 「さぁ、何だろうな。分かったら苦労しない。まぁいいや。とりあえず、これ外して」 ジグは自分にかけられた拘束具を僕の視界に入れた。
出掛けるのに着けた、足かせなどを解いてやると、ジグは大きく溜め息をついた。 「……終わらせてほしかったのは、俺の方だ」 ぐしゃりと前髪をいじりながらの見慣れた仕草に、反射的に人差し指を向けた。 「い、意味が分からん! 何だ、今までのは全部演技だとでもいうのか!」 「全部とは言わないが……。まぁ、その。八割くらい」 言葉が、頭で反響して。理解に数秒を要した。 「……何だ、それ」 言われた言葉を理解した途端。さっき以上の脱力が自分を貫き、膝が折れていた。 「何だそれ何だそれ何だそれ何だそれ何だそれ……」 消化出来ない情報を何とか処理しようと頭を動かすが、片付かない。 ただ感情のままに言葉が漏れ出して止まらない。 「……こうには、したくなかったんだけどな」 頭の上の方で、ジグの哀しそうな声がした。
○
「ゾンビになったのは確かに事実だし、なった直後に噛みつこうとしたことは事実だ」 「何、それって衝動か何かなの」 ジグは、まるで普通の人間のようにソファー足を組んでソファー座る。僕は座らず、何週間ぶりに淹れたコーヒーを片手に立っている。 「そうだね、衝動だ。だけれど一応意識はあるのに、脳内をジャックされてる感覚みたいな感じかな」 「……ジャックされたことないから分からん」 「あくまでイメージだイメージ。それで、何でか知らないが人間を見ると噛みたくなる。それが菌の効果だかなんだろう。でも、噛むとそれはゾンビという同族になって、食事対象とは思えなくなる」 「でもお前、俺が獲ってきた家畜のゾンビを食ってただろう」 「それは、ゾンビの、更に死骸だからな」 「……情報多すぎて頭が痛くなってきた。理解を拒んでるぞ僕の脳は。腐食してないのに」 「イヤミか」
とにかく、基本的に菌には肉体が逆らえないらしく。それの連鎖でゾンビは増殖していく。 だが、僕は自分を襲われない状態にしながら、ジグの腹を満たす行動をした。 それが、良かったのかは分からないけど。 その行動の結果が、これである。 人を襲わない行動が出来る、ゾンビの完成だ。
「本当は、もっと早く俺を殺してほしかった。というか、殺してくれると思ってた」 「何で」 「嫌ってくれると思った。ああすれば」 ああすれば、とは。 ゾンビっぽく装うことのことだろう。 「その割に、怖くなかった」 「俺だって色々怖いんだ。察しろ」 「……ふぅん」
しばらく、どうでもいい話をした。多分、一時間くらい。淡々と。 意外と、話すことはなかった。
話すことも無くなると、ジグは立ち上がり。 最早年単位で放置された、開けもしていない郵便の山に手を入れ。一つの封書を手に取った。 それは、しっかりと封蝋されたもので。 「……」 僕はそれから目を、逸らした。
「ラジオで言ってた」 「……」 「何か分かってるんだろう」 「……」
ジグは勝手に封筒を開き、中に入っていたチケットを僕の手の中に押し込む。 「……見ない事を、理由にするな」
分かっている。勿論。 それは、今更動いた国からの。 ここから、隔離世界への。
「知ってたんだろ。此処から出られるって」 僕は、返事を拒んだ。 でも、ジグは逸らす僕の目線を捕まえる。 知らないふりをすれば、見ていないふりをすれば選択肢は消える。ここにしか居れない理由になる。 ここに居る理由をいつから僕は、正当化させようとしていたんだろう?
「――生きてる人は死者と、こんな風に居てはいけないんだ」
ある意味、ジグは。 僕の今までを、確かに、終わらせた――。
○
感染をしていないか何度も何度も検査をされて通された世界は、写真でしか見たことのないような都市になっていた。鉄道も整備されているし、バベルの塔か、と言いたくなるような建造物まで。
いつかまた、故郷に戻れるかは分からない。 でも、やっと。 ちゃんと時間を刻む世界の一部に戻った気がした。 まだ、正解の選択か分からないけれど――。
○
「――そろそろ、あいつは着いた頃かな」 それは、何処か海の際。 ジグは一人、拳銃を片手に。 「……どうせなら、お前に殺されたかったんだけどな」 銃口を心臓にあて。癖の笑みを、最後に。
「――」
誰かの名が小さく海に。 でも、それを銃声がかき消す。
優しいゾンビの終わりを、誰も、知らない。
――死んだ世界と、誰かが死んだ
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