○兄のエプロン/野永 創

 冷たい水で食器を洗い続ける先輩の手は、いつも荒れていて痛々しかったけど、いつも暖かかった。

 女性の従業員やアルバイトはほとんどがホールで接客をし、男性は厨房で調理や皿洗いが基本となっていた。

 だけど、俺が大学に通う傍らアルバイトとして入った時、

 「君は可愛いから」

 という店長のひとことで、俺は男なのにホール接客をすることになってしまった。

 有名店ではないが、地元では人気のファミリーレストランだ。

 俺は皿洗いならやれる、と思って面接に行ったはずだったのに。

 注文のとり方だとか料理の運び方だとかレジの打ち方だとか、覚えることはたくさんあって、俺はもうパンクしそうだった。

 技量を見てこいつは接客のほうが向いている、と判断したのなら仕方ないし納得もできるが、まさか外見で判断されるとは思いもしなかった。

 自分自身、可愛いと思ったことなど一度も無い。

 さまざまな戸惑いの中、俺を救ってくれたのが先輩――(小掠オグラ)さんだった。

 小掠さんは俺よりも五つ歳上で、兄さんと同い歳だ。

 五年前からこのファミレスで働いていて、厨房の中ではリーダーを務めるほどだ。

 いまは新人教育のためにリーダーを退いている。

 厨房内での仕事はなんでもこなし、店が閉まった後の片づけも小掠さんが率先してやっている。

 いつも遅くまで残って食器をきれいにしている。

 昼間や夕食どきの忙しい厨房から一変、深夜の閑散とした厨房で皿洗いをする小掠さんはなんかカッコよくて、俺は尊敬するようになった。

 この尊敬が、別の想いに変わってゆくのにそう時間はかからなかった。

 小掠さんは男だし、男の俺が好きになるなんておかしなことかもしれないけど、俺は本気で慕っている。

 付き合いたいだとかデートしたいだとかそんなことではなくて、いまの関係のままずっといられたらいいなと、それを常に願っている。

 仕事終わりに一緒にまかない飯を食べたり、たまに飲みに誘ってくれたり、それが楽しかった。

 大学での悩みとかバイトでの悩みとか、たくさん俺の話を聞いてくれた。

 小掠さんからは自分の話をしてくれることはそんなに多くなかったけど、好きな人のことだったらなんでも知っていなきゃいけないとは思わないから、俺は焦らなかった。

 ***

 俺がバイトを始めて一年が経った。

 店長に対してシフトのこととか、すこしなら融通がきくようにもなった。

 それでも俺は相変わらずホール接客だったし、小掠さんは皿洗いをしていた。

 小掠さんはほぼ毎日お店にいるため、俺もほぼ毎日シフトを組んだ。

 バイト楽しそうでなによりだよ、と兄さんに言われ、

 「これが幸せか」

 と実感させられた。

 両親に捨てられ兄弟ふたり、世間に投げ出された時は本当に絶望して、どうしたらいいか判らなくなった。

 でも、生活費や学費のためにバイトを始めたことで小掠さんにも出会えたし、いまでは過去のことなんて気にしていない。

 俺の生活に、小掠さんの存在は欠かせないものとなった。

 小掠さんがいてくれればそれでよかった。

 ***

 小掠さんがいなくなった。

 店長を包丁で刺し、店の金を奪って逃げた。

 金に困っているようすも、店長を恨んでいるようすも無かった。

 店長も小掠さんを信頼していたのに。

 腹部を刺され、厨房で倒れている店長をマネージャーが発見した。

 たくさんある調味料の中からカレーをつくる時に使う粉末のスパイスの缶が転げ、中身のオレンジ色の粉が、倒れている店長の血と混ざりあっていたそうだ。

 マネージャーが見つけた時にはまだ息があって、

 「小掠が、小掠が」

 と、しきりに呻いて、救急車の到着を待たずに事切れたという。

 本当に小掠さんが犯人か判らないけど、自宅や携帯電話も連絡がとれず、警察は小掠さんを犯人としていろいろ捜査をしているらしい。

 小掠さんと親しくしていたということで、俺のところにも何度も刑事は話を聞きにやって来た。

 俺は、小掠さんがやったと思いたくなくて、小掠さんを擁護するようなことしか言わなかったし、それ以外のことなんて言えなかった。

 小掠さんが店長を刺してしまったことよりも、俺になにも言わずに姿を消してしまったことのほうがショックだった。

 あんなに楽しかったバイトも、いまでは苦痛でしかない。

 店長が亡くなってしまったが、マネージャーが必死に店を営業させている。

 殺人があった店で、誰が食事をするというのか。

 それでもマネージャーは従業員やアルバイトを見捨てなかった。

 それに、俺もバイトを辞めるわけにはいかなかった。

 あの店で働いていれば、いつか小掠さんが戻って来てくれるかもしれない。

 あんなに親しかったのに、俺にも連絡してくれないなんて――

 肩を落とし帰宅すると、兄がカレーをつくって待っていてくれた。

 保育士が使っていそうな可愛いエプロンを身につけた兄を見、

 「似合ってないよ、兄さん」

 俺は苦笑して言った。



 了