「……そう、それくらいの濃度で。そう……」 「待って、バランスが狂ってきたから……」 「後はもっと濃淡……。メリハリをつけて……、ね」
○ 高校の旧校舎、寂れた部室。美術室。夕方、カラスの声。 部屋には私と先輩だけ。 遠くに運動部の声がするけれど、この部屋の音の大半は微かな音。 私の動かす鉛筆の音。先輩の声と息。 気を抜いてしまったら。私のこの心音が、この静けさを破ってしまいそう。 私の手から、鉛筆が零れ落ちてしまいそう。 先輩の髪からの、この柔らかな香りに惑わされてしまいそう。 この時間が、何時間でも続いても私は幸せ。 ……幸せ。
○
それは偶然の。いえ、仕組まれたような出会いでした。 冗談の通じない教師様からの何の得にもならない長話に付き合ったその放課後。 近道するため旧校舎なんて抜けようと思っていると。 その絵と、遭遇なんてしてしまったのです。 もう窓の外は真っ暗で、色彩を置いてきてしまった世界。そこに更なるモノクローム。 でも、不思議に感じる生命感が眼球を射抜いて固定なさるの。 確かにそれはただの白い紙、画用紙が基盤となる場所。 そこには誰かが構築した空想の建造物。 柔らかそうな髪の乙女。 硬質な鱗を持つ架空の子龍。 でも空間はとしては少し不思議で、建物自体が地についていないような、不安定感。 何がそんなに不思議さを煽るのかが分かるほど私は絵を知らなくて。 ただそのセカイに飛び込みたくなる衝動を目から。でもそんなこと出来るはずもなく。 吸い寄せられるように、一歩、一歩と歩み寄ると。
「――誰、かしら?」
少し怯えるような、でもはっきりとした声が背後から。
「え、いえ、ちょっと……」
その人は、上級生の上履きを履いていた。
「絵、好きなの?」
触れていません、とお手上げのポーズをとる私を下級生と気づいていただけたようで。 先輩は、静かに笑った。
「恥ずかしいわ。それ、先生にあまり褒めてもらえなかった絵、だから」 「え? こんなに綺麗なのに?」
先輩は更に笑った。袖で口元を押さえて。 何だか、目に涙が。
「え、いや、その」
――泣かせてしまった。 ――泣かせてしまった。 私が焦っていると、先輩は首を横にふる。
「違うわ、笑い上戸な私なだけよ。気にしないで」 「そ……そうですか?」
これが、私と先輩の出会いでした。
○
先輩はとても優しくて。 この日はすぐにお別れしたけど、私はその部屋で絵を描く先輩に何度も会いに。 でも、会っていくうちに不思議に思うことも。
「先輩、美術部って新校舎にありますよね。なんでここで描いているんですが?」 「ん? 話さなかったかしら」 「言われましたっけ」 「ほら、先生に褒めてもらえなかったって」 「あ、それは聞きましたね」
先輩は、悲しそうな顔をした。
「ここの美術部って、大会ありきじゃない」
確かに。私はすぐに納得した。 この学校の美術部はいつも大会だ、入賞だと正直うるさい。 確かに綺麗ではあるのに、技巧ばかりでつまらないのだ。
「だから、先生は私の絵、嫌いだったみたい」
先輩の哀しそうな顔と、怖いくらいに綺麗な黒髪に泣きたくなった。
「私は、私は先輩の絵が好きです」 「ふふっ、ありがとう」
私は先輩みたいになりたくて、茶髪を黒に戻した。
○
先輩は日に焼けて無くて、白い肌が黒い制服に際立った。 細く長い脚が薄いタイツに覆われ、触れたくなった。
「私、タイツとか似合わないし」 「着てみないと、似合うも似合わないも分からないわ」
私は、先輩を真似てタイツなんて買ってみた。意外と、皆に好評だった。
○
私も絵が描けるようになりたいと、画材なんて買ってみた。 最初は鉛筆と練り消しから。カンバスは一緒に水張りをして用意して。 イーゼルを私の都合の良いように立てて。
「私は先生たちみたいに教えられるなんてそんなのじゃないけど。何か、描きたいものはある?」
私は先輩の描く絵が描きたい。
「先輩が描くような、絵が描きたいです」
○
「紅葉さん、随分とイメージが変わったわよね」 「俺、今の方が好きなんだけど。てかアイツ、あんなに美人だった?」 「でも顔色、少し悪い気がする」 「気のせいだろ」 ○
自分で言うのもおかしいかもしれないけれど、上達したと思うの。 先輩も褒めてくれて。 幸せ。
○
「紅葉、放課後何で旧校舎になんて行っているのよ」 「絵を描いてるの。先輩に教わって」
弓子が不思議がるのが不思議だった。
「絵って。美術部は違うでしょ」 「先輩、あんなに競って、そして審査員受けする絵を描くのは嫌なんですって」
弓子の顔が、何だか青ざめたような。
「……ねぇ紅葉。一応言っておくけど、旧校舎って幽霊の話があるのよ」 「何それ」 「詳しくは知らない。でも、知っておくにこしたことはないし」 「そっか。じゃあ先輩にも教えてあげないと」
弓子の表情を、不思議に感じた。
○
「――なんて、弓子が言うんですよ。馬鹿馬鹿しいですよね、幽霊の話なんて」 「そうね、馬鹿馬鹿しいわね」
二人で笑って、絵を描き進めて、少しお茶をして。 絵が、完成して。
「これ……、私が描いたんですよね」 「そうよ、紅葉さん才能あるわ」 「そう思いたくなってしまいますね」
笑い上戸は、こんなことでも笑ってくれる。 でも、何だか様子がおかしいような。
「先輩……?」 「……そうね、そう。上手く描けるはずなの」
笑いの後の、異常なる無表情。
――冷たい。
「だって、私が“ツイテイタ”のですもの」 「そ、そうですね、先輩が一緒にやってくれたおかげ……」
髪を振り乱し、首を横に振る。
「違うわ。憑いて、いたの。言っている意味、分からない?」
既に真っ暗な外。先輩を背後から照らす月明かり。 そして、私の頬に触れる、冷たい真白色の手。
「ふふ、私そっくりになったわ。素敵よ。でも、名前が駄目ね、貴女の名前は鮮やか過ぎるわ」 「何を、言っているんですか」
私の顔を解放し、先輩は笑みを浮かべる。手を後ろで組み、窓の外を見て。
「……ねぇ紅葉さん、白は好き? 黒は好き? 赤は好き?」 「へ?」 「私、白と黒が好き。それで赤は、大嫌い。勿論、紅も嫌い大嫌い」
私の名前の漢字を、この人は大嫌いと恨むような声。
「折角、ちゃんと育てたのにまさか名前がこうだとは思わなかった。私を汚す色だなんて」
先輩は爪を噛む。 目を見開く。 ――私を、見る。
「貴女は私になれなかった。何度か会って、貴女の名前何度か目に知った。何で初日に訊かなかったか酷く後悔したわ。だって、知った時に私はもう貴女の改造に着手していたのですもの」 「何を言っているか、わかりません」 「だから、私よ。幽霊は」
凄くシンプルに。この人は簡単にその言葉を口から出した。
「で、でも! ちゃんと触れましたし、そんなはず……」
頭を抱えて、溜め息をされる。
「別に、生きている人の都合の解釈でしょ」
先輩は私の足を踏みつける。 それは彼女の体格からは想像出来ない、まるで足をすり潰しにくるような。 「大好きだったわね、私と、私の絵。でも、貴女が私の器にふさわしくないと気づいたから」
幽霊なはずはない、と自分に言い聞かす。 足は痛くてたまらない。 でも、その気迫で突き飛ばせない。
「折角、数時間でも私が手をかけてあげたし、下手に変な噂立てられても嫌だしね」
顔が、近い。 睫毛が、長い。
「だから、せめて。私の姿で、私として死んで欲しいの。大丈夫。悪いようにはしないわ」 「――先輩と、して……?」
そういえば、私はこの人を先輩と呼んでいるけれど。
――この人の名前、何だっけ……?
視界が陽炎のごとく。曖昧になるような。
「貴女はね、斉藤真白になれなかったの。でも貴女は、私の絵で生きればいいから」
強く甘い香りと先輩の笑み。
「大好きなんでしょう? 大好きの中で眠れるなんて、羨ましいわ」
力が、抜けていって。
「そこに住みたいとか思っちゃった、キミの負け」
やだやだ聞きたくない。 でもだからって、叶えるように耳が遠くなるなんて。
そんな風になってしまった。この耳の最後に。それは愉快な声で聞こえた台詞は。
「――ばいばいっ」
○
石宮紅葉の死体が発見されたのは、旧校舎の、かつて美術室として使われた部屋だった。 第一発見者は彼女の友人の磯山弓子。 家に帰らない彼女を心配し、早朝の学校で発見した。 彼女の叫び声を聞きつけ、教師たちが旧校舎に押し寄せる。 紅葉の身体は既に熱を失くし、硬直していた。 死因は、くも膜下出血。他殺の可能性は無いと判断された。 誰かが、幽霊に殺されたなどと噂をたてた。 でも、噂も何日とやら。 彼女がいなくなっても、日常は停止しない。 でも、それは何人かを除く。
「皆井先生、大丈夫ですか……?」 「……」
その人は死体を見て、まるで人形のように停止した。 なぜならそこには。 自分を愛し、自分が振り、自分が否定し。 自分が殺した少女がもう一度。 目の前に。
「――何の、つもりだ……!」
皆井は、死体の上に乗り首を絞める。 既に、冷たい白い体に。 周りはただただ唖然と。その景色を。 そして微かに、冷たいはずの唇が呟く。
「……愛してる。だから……、許さない」 「――っ!」
死んだはずのその体から。 紅葉の体から。忘れられない真白の声で。 皆井の鼓膜にハリツキ呪う。
そして。 自分の死体が崩れていくのを、紅葉は最初の姿で。 あの嫌われた絵のから哀しそうに見つめていることしか出来なかった。 目を、逸らすことも――。
――最愛デッサン
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