○/野永 創

 「あれ――傷になってる」

 そう言ってぼくは、中川の背中を撫でた。

 ちょうど、肩甲骨のあたり。

 小さなひっかき傷がふたつみっつできている。

 「それ、お前のせいだよ」

 背中を向けたまま中川は言う。

 ぼくたちは下着もつけず、ふたりでベッドに横になっていた。

 「え。ぼく? ごめん、知らない間に爪を立てちゃったかな」

 「そんなところに傷をつけられるのって、お前以外は考えられないからな」

 言いながら中川は、傍らのテーブルに置いてある煙草の箱に手を伸ばす。

 「吸えよ、蜂村」

 「――うん」

 ぼくの顔を見ずに、中川は煙草を渡してくる。

 この男は自分では絶対に吸わない。

 煙草自体が嫌いなのだ。

 でも、煙草を吸っている男を好きになるという、不思議な奴だ。

 「あ。最後の一本だよ中川」

 「‥‥そうか」

 「買ってくる」

 ぼくが起きあがると、中川は、やっとぼくの顔を見てくれた。

 「買いに行かなくていい」

 半身を起した中川は、どこか不機嫌そうに言った。

 「なに。買ってあるの?」

 すこし声を弾ませたぼくを、中川は、じとりと睨んだ。

 「お前が煙草を吸ってる姿を見るのは、これで最後にしたい」

 言ってる意味が判らなかった。

 「蜂村、お前――無理して吸ってたんだろ」

 中川はもう、ぼくを見ていなかった。

 「別に、無理なんてしてないよ」

 嘘をついた。

 煙草を初めて吸ったのは大学の時で、当時好きだった教授が吸っていたのをくすねたのだった。

 大学の中庭で吸っていたのを、この中川に見られた。

 「君、煙草吸うんだね」

 そう声をかけられたのがきっかけで、身体を繋げる関係になった。

 ぼくは、煙草は美味いもんだとは思わなかったし、できれば二度と吸いたくない。

 でも、煙草を吸う蜂村の姿がかっこよかった、と中川に言われてその気になってしまった。

 元々、女よりも男のほうが好きだし、中川は好みのタイプにあてはまった。

 煙草は嫌いだけど、煙草を吸ってる蜂村は好き――

 そう優しく言われては、吸い続けるしかない。

 「俺のために無理して吸ってくれてたんだろ? 苦い顔して吸ってるからな、判りやすいよお前は。まぁ、そんな顔を好きになったんだけどな」

 中川はぼくの肩を抱き寄せ、唇を重ねた。

 「‥‥っ。中川、なに」

 中川はすぐに、ぼくから目を逸らした。

 「だから、俺のためにもう無理して煙草なんか吸わなくていいって言ってんの」

 「どうして、そんなこと‥‥」

 「お前のためを想って言ってるんだよ蜂村。俺の傍にいると、お前は我慢して吸わなきゃいけない。だから――」

 「だから、もうぼくが我慢しなくてもいいように‥‥?」
 

 別れようって言うのか。

 「勝手にぼくのことを好きになって、その気にさせて。それで飽きたら突き放すのか? 結局、中川はぼくを好きになったんじゃない、煙草を吸う誰かを好きになってるだけだ! ぼくじゃない、所詮ぼくは、都合の良い存在なんだ!」

 中川はぼくを見ない。

 ぼくを見てほしい。

 軽蔑の眼差しでもなんでもいい、ぼくを見て。

 「蜂村に飽きたわけじゃない」

 「じゃあ嫌いになった?」

 「そうじゃない」

 「――だったら、なに」

 中川はそっと目を閉じて、なにも答えなかった。

 ――お前のためを想って言ってるんだよ蜂村

 さっき、中川はこう言った。

 ぼくのために、自分の気持ちを押し殺してるっていうのか?

 それならいっそ、ぼくのことを嫌いになってくれたほうが、どれほど幸せだろう。

 「なぁ蜂村。最後の一本、吸ってくれよ」

 ひどく掠れた声だった。

 ぼくは煙草の箱を握りつぶし、壁に向かって投げつけた。

 その勢いのまま、中川を押し倒す。

 ぎし、とベッドがひずむ。

 「最後の一本を吸ったら、ぼくたちはそれで終わりか?」

 また、中川はぼくを見ない。

 「ぼくを見ろ!」

 色白の細く長い指で、中川はぼくの首筋をなぞった。

 「昨夜、俺がつけた痕――」

 優しい声。

 情事の時と同じ声。

 さきほどの掠れた声とは比べものにならない声。

 ぼくは中川のその手を握り、ぐい、と身体を抱き起した。

 中川の身体は冷たかった。

 「厭そうな顔をして吸ってる蜂村が好きだったのに、いまでは嬉しそうに吸ってるんだもん。そんなお前の顔を見てたら、俺のほうが苦しくなってさ」

 中川は優しい声で語り出した。

 ぼくは黙ってその声を聴いていた。

 「俺もね、吸ったことあるんだよ。一度だけ。好きだった人の煙草を。でもフラれちゃって、それで嫌いになったんだ。苦い、苦い思い出。嬉しそうに煙草を吸うお前の顔を見てたら、その苦さが蘇ってきてさ」

 ぼくじゃない誰かを見ながら、中川は話す。

 「俺みたいなダメな男のために、なに嬉しそうな顔してんだよって、虚しくなる」

 「――ぼくが中川を虚しくさせてる?」

 中川はぼくの問いには答えず、

 「蜂村のことは好きだよ」

 とだけ言った。

 ぼくが虚しくさせてるんだと、肯定されたようなものだ、これじゃあ。

 「そろそろ開業の準備も本格的に始めるんだろ?」

 「――うん」

 「俺に構ってないで、仕事を優先させろ。蜂村は優しくて、いい奴だから結婚だってできる」

 もうなにも、言葉を返せなかった。

 中川の背中に手をまわし、撫でる。

 これ以上、虚しい想いをさせたくない。

 苦い想いを消し去ってほしい。

 指先が、乾いた痕に触れた。

 「傷に、なってる」

 ぼくの声は涙で濡れていた。



 了

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