女とは思えないくらい背は高い。そのくせなぜか胸は育たない。
 髪もベリーショートを保ち続けてる。短い方が楽だから。
 一人称は普通に私だけれど、極めつけに声も低めとなれば、まあ、誰からも1度は男に間違えられるし。
 変な男どもに絡まれたり、ケンカふっかけられたりとかもう、日常茶飯事。
 でもやっぱりどう転んでも私は女で、男と殴り合って勝てるわけもないので。
 私に出来ることは1つ。
 三十六計、逃げるにしかず!



 天気がいいうえに、学校が臨時で休みになった平日という、最高の1日。
 そんな今日の昼過ぎ現在、散歩を楽しむはずだった私は――
 なぜだか、逃げている。

「てめえ、このっ……待ちやがれ!」

 背後から飛んでくる怒声。それの言うてめえとは、間違いなく私のことである。
 なにしろ平日のこんな時間に街をぶらついている人間が私以外にいない。間違えられようも無ければ、誰かに助けを求めるのも出来そうに無い。ちくしょう。

「待てっつってんだろ! てめえ自分がほざいたこととやってること分かってんだろうなあ!?」

 逃げる私を追う声が言う。
 いや、うん。分かってるよ。自分が何をやらかしちゃったのかも、本来なら私に逃げ出す権利が無いことも。
 でもね? まずかったの! 身の危険をひしひしと感じたから逃げちゃったの! 私の本能がやばいって言ったの!

 静かな往来を縦横無尽に駆け巡るこのチェイスの原因は、ほんの少し前までさかのぼる。

 ただ純粋に散歩をしたくなった私は、何も持たずに外出して、あてもなくふらふら歩いていた。
 しばらくはそのままぼんやりと歩いていたけれど、不意にある路地の前で足を止めることになった。
 細い道の奥にいた少年に、見覚えがあったから。
 別に私とそいつは知り合いでもなんでもなかった。私が友人から、そいつの噂を聞いたことがあっただけで。
 路地にいるそいつを見たとき、友人から聞いた話の内容をはっきり思い出せなくて、私はそいつが何者なのかよく分からなかった。
 しばらく立ち止まって、記憶を探って。
 そして、思い出した勢いで、心の声を口に出してしまった。

 ――あぁ、シャークだ! あの札付きのワルの!

 気が付いたときには遅くて。
 私の大声は路地裏に響きわたり、そして例の少年が、背筋の凍ってしまいそうな目で私を睨んでいたのだった。



 至る現在。
 つまり今、怒鳴りながら私を追い回しているのは札付きのワル……らしい、シャークその人。
 いや、まあ、どう考えたって私が悪いよね。自分でもそう思う。
 でもさっきはもう、なんていうか、

 ――野郎……、分かっててオレに言ってんなら、それなりの覚悟は出来てんだろうなァ!?

 ……って言われて殴りかかられたら、逃げたくもなるよ。
 しかも野郎って言ってるあたり、私また男だと思われてるんだろうなあ。
 私は女なんだって。暴力は御免なんだってば。
 というかもう、相当な距離走ってると思うんだけど。いくら男女の差があるとはいえ、なんで怒鳴りながら走っててバテないのあいつ。
 数多の男との殴り合いを避けてきた私の逃げ足と対等にわたり合うとは。シャーク、おそるべし。
 実際のところ、私は彼のことを通り名と噂しか知らないのであって、彼に対しての悪意なんて微塵も無い。そもそも知らない人に悪意を抱く理由が無い。
 さっきの発言は、友人の言葉を復唱したものであって、私の本意じゃない。
 本当なら、ちゃんと謝った後にその旨を伝えて、彼の誤解を解きたいところなんだけど……あの怒りようじゃ難しいだろうなあ。
 だからといってこのまま走り回ってたら、私がバテそう。どうしたものか、うーん。
 と、考えていたとき、

「うへあっ!?」

 体が急に失速して、視界がぐるりと回った。直後、全身に走る痛み。
 地面に寝転がっているのが分かって、私は自分がころんだのだと理解した。
 しかし、我ながらなんて色気の無い悲鳴。だから男と間違われんのかな。
 一度止まってしまうと、疲れというのは一気に吹き出してくるもので。
 体は隅々までだるいし痛い。呼吸も、いくら肩で息をしても整わない。視界が少し霞んでる気がする。
 私、寝てる場合じゃないんだけどなあ。
 ああ、ほら、もうそこまで来ちゃってるじゃん。
 横に倒れた視界に入ってきたのは、両足。
 目線だけを動かして見上げれば、それはもう恐ろしい目付きをしたそいつと目が合った。

「はっ、大口叩いてたくせに、無様だなァ」

 そう言ったシャークの口角は吊り上がってこそいるけど、目が笑ってない。これはたいそう怒っていらっしゃるな。
 一応息はあがってるみたいだけど、こいつ私ほどバテてない。
 どんだけタフなんだちくしょう。

「散々言った挙げ句、無駄な体力使わせやがって……覚悟はいいかよ、クソ野郎」
「いや、その」
「あァ? 今更命乞いしようってんじゃねぇだろうな?」

 ちょいちょい、私の弁解を遮るな。
 喉カラッカラでしゃべるのキツいんだから。
 むせる私を尻目に、シャークは言う。

「言いたいことがあんなら、後で聞いてやってもいい。だからまず、一発蹴られても文句はねぇよな?」

 彼の右足が半歩後ろに下がった。
 いや、お待ち。待て待て待てそれはダメだって。

「ちょ、ちょい」

 下がった足が腹を蹴り上げる前に、私は力無く手を挙げた。
「ちょい待ち、ストップ。お願いだから」
「……自分が何言ってんのか分かってんのか」
「分かってる。分かってます」
「だったらなおさら聞けるか。野郎なら潔く報いを受けるのが筋だろうが。女々しいぜ」
「女々しくて結構。だって私、女の子だし」

 張り詰めた空気が、がくっとずっこけたような雰囲気を肌で感じた。
 そいつも、さっきの怖い顔はどこへやら、両目を丸くして思いっきり面食らった顔をしている。うん、そういう目の方が歳相応でいいよ。
 てかやっぱり、完全に男だと思われてたのね。

「は?」
「だからね、私レディーなの。アイアムガール。お分かり?」
「冠詞がねぇぜ」
「黙らっしゃい」

 本来ガールの前にアがいることくらい知ってるわい。
 今は気にするとこじゃないでしょうが。

「……証拠は」
「はい?」
「アンタが女だっていう証拠はあんのか、って聞いてんだ」
「証拠? あー……」

 そうきたか。
 私はうなりながら、なんとか上半身を起こしてズボンのポケットに両手を突っ込む。
 しまった。本当に散歩だけするつもりだったから、完全に手ぶらなんだ、私。
 身分証明も出来ないや。

「……今ここで私が脱ぐくらいしか証明のしようが無いんだけど」

 真剣に考えても他に手段が無かったから、冗談半分で言ってみる。
 そしたらシャークはもっと目を丸くして、顔を引きつらせた。
 お、若干顔が赤い。やーい、思春期男子。

「で、どうしますかシャークさんとやら」
「いや、いい。分かったから余計なことすんな」
「てことは、私の言うことを信じてくれるわけね」
「アンタだって公然猥褻したいわけじゃねぇだろ」

 ずいぶん難解な言葉をご存知のようで。
 当たり前でしょう。私は変態になんてなりたくなくってよ。
 彼はバツが悪そうに頭を掻いて、両足を揃えて仁王立ちになった。もうさっきまでの人を殺しそうな雰囲気はまとっていない。

「あのさ」
「何だよ」
「信じるついで、って言うのもアレだけど、もうちょっと私の話を聞いてくれないかな」

 今なら冷静に話が出来そうだからね。
 彼は私の要求に何も答えないで、地面にどかっと腰を下ろして、ただじっとこっちを見てきた。
 私はその意味を悟って、ありがと、と言ってから、話を始めた。



「――と、いうわけなんだけど」
「そうか。それは悪いことをしたな」
「信じてくれるんだ? 私の話」
「嘘っぽい話にも聞こえねぇから」

 だって本当の話だからね。
 けど、話を聞いてもらえてよかったよかった。

「君は謝ることはないよ。いくら言いたくて言ったんじゃないとはいえ、初対面であらぬことを言った私が悪いんだし」
「それは全面的にアンタに非があるとして」

 全面的に、ってきっぱり言われた。事実だけどなんかショック。

「その、悪かったな。てっきり男だと思って、殴る気満々だった」
「いいって。もとは私が悪いんだし、男に間違われるのも、殴り合い仕掛けられて逃げるのもしょっちゅうだから」

 そう言ったら、シャークはまた驚いた顔になった。
 無理もないか。普通の女子の日常とは大違いですもの。
 それにしても、

「君、少しも悪い人なんかじゃないね。聞いてた話と全然違う」
「な、なんだいきなり」
「札付きのワルだなんてでたらめだ、って言ってんの」

 怒らせたら怖かったし、平気で人のこと蹴ろうとしたけど。

「私の話をちゃんと聞いて、信じてくれて。私が女だって言ったときも、蹴るのやめてくれたし。今だって私に謝ってくれた」
「……女子すっ飛ばすのはオレの主義じゃねぇ」
「友達がやけにひどい噂ばっか聞かせてくるからさ、どんな外道野郎かと思ってた。ごめん」
「別にいい。慣れてる」

 悪印象を持たれるのには、慣れている。
 少し陰った彼の顔が、言葉の真意を物語る。
 もったいないなあ。こんなに優しいのに。

「ねえ、シャーク」
「あ?」
「名前、本当の、教えてよ」
「……アンタの考えてることはよく分かんねぇな」
「いいじゃん。今日会ったのも何かの縁。いい奴の名前、知っときたいんだ」

 悪名高い通り名じゃなくて。
 本来の、優しい人間である彼を表す名前。
 知りたいと、呼びたいと思った。本当の彼を。

「凌牙……神代凌牙だ」
「へえ、凌牙かあ。かっこいい名前じゃん」
「アンタは」
「え?」
「正体不明の奴に名前を教えるほど、オレはお人好じゃねぇ。アンタも名乗れ」

 フェアじゃない、ってことですか。まあ一理ある言い分よな。
 別に教えても困るものでもないし。

「妙時那真絵っていうんだ」
「妙時那真絵、な。まあ、覚えといてやる」

 言って、凌牙はふい、と私から目を逸らした。
 なんだこいつ。

「そういや、あー……神代呼びか凌牙呼びかどっちがいい?」
「好きにしやがれ」
「じゃあ凌牙で。で、凌牙。あんなとこで何してたの君は。まだ学生なんじゃないの? 学校は?」
「あぁ、サボった」

 この歳でサボりとは。
 そりゃ悪い噂もたつわ。

「アンタだって学生だろ?」
「私は今日は臨時休校ですー。それで暇だから散歩してた」
「そうかよ」

 おもむろに凌牙が立ち上がる。どっかにサボりの続きかな。
 私も、もう少し体力が回復したら、散歩の続きに行こう……。

「おい」

 声がして、顔を上げる。
 そこにあったのは、私を見下ろす凌牙の目と、差し出された彼の左手だった。

「何これ」
「散歩中だったんだろ。サボりついでに付き合ってやる」
「いやでも、この手は何この手は。私、自分で立てるよ?」
「さっきまでくたばってた奴がよく言うぜ。どうせまだバテてんじゃねぇのかよ」
「……察しがよろしいようで」

 もうずっと男みたいに思われてきたから、いたわられるのって、なんかあんまり慣れないな。
 なんかこう、照れくさい。

「えっと、色々ありがとう?」
「暇つぶしの相手になりそうだから、付いていってやるってだけだ」
「はいはい」

 いいよ。どんなに口先が無愛想だろうと、君の本質は変わらないから。
 君がとても優しいのは知ってるから。

 ボーッとすんな、と凌牙が言うので、私は差し延べられた手をつかむ。
 その手もやっぱり温かくて、優しい温度だった。