いつだって不安になる。気弱になる。
嗚呼、いつから俺はこんなにガキになったのだろう?


「……ん、」


理事長室から保健室に向かう途中の廊下。窓から見えた景色。中庭の木々の隙間に見えた、アイツの姿。

(…なにしてるんだ?)

思わず足を止めて見つめる。アイツの傍には天羽と木ノ瀬が居た。また何かよくわからん実験に付き合っているのかと思いきや、どうやら違うみたいだ。よく見ると、なまえと天羽は木登りをしている。木ノ瀬はそれを呆れ顔で眺めていた。おいおい、スカートで木登りをするなよ。遠くに居るのに声に出して忠告しそうになる。

(相変わらず、おかしな奴だなあ)

ぎこちない手つきで木によじ登るなまえは自分より高い場所に居る天羽を見て何かを叫んでいる。天羽は笑う。するとアイツも笑う。楽しそうに笑う。
それを見た瞬間、俺の胸はつきりと痛み出す。

(嗚呼、まただ)

また、俺は不安に押し潰されそうになる。アイツは俺のものなのに。俺はアイツのものじゃないみたいな気がして。
一方的な独占欲。苦いそれを噛み締めて俺は歩き出す。保健室へと逃げ込む。見たくない、見たくない。誰かとアイツが笑い合う場面なんて、アイツが俺以外を受け入れるところなんて。心の奥底からふつふつと沸き上がる汚い感情の波に俺は息の仕方を忘れそうになる。白衣の上から左胸を押さえてうずくまる。苦しい、怖い、寂しい。

(また、失うのか)

この手で掴んだと思っていたものは幻で。
また夢のようにさらりと消えて終うのか?




「失礼します。星月せんせ…い…?」


がらり。ドアが開いて光が差し込む。顔をあげると目を見開いたなまえが居た。こどもみたいにうずくまる俺を見た途端、なまえはこちらに駆け寄って来る。


「大丈夫ですか?何処か具合が悪いんですか?」

「…っ、なまえ…」

「…せんせい…?」


熱を測ろうと俺に手を伸ばしたなまえの動きが止まる。俺はそんなこいつの顔をただ見つめる。触れたい。触れたい。あんなに欲しかったものが、いま此処にある。


「…どうしてそんな泣きそうな顔、してるんですか」

「……おまえのせいだよ、なまえ」

「え、」

「おまえ、さっき天羽や木ノ瀬と一緒だっただろう?」

「…はい。木登りしようって話になって…」


俺と同じ目線のこいつの肌は酷く白い。月明かりみたいな色だ。ふと手首に赤みを帯びた傷があるのが見えた。成る程、だから保健室に来たのか。理解した。俺はなまえの話の続きを聞かずにその手首を取る。微かな痛みを感じたこいつの顔が歪む。綺麗だ。


「…私が翼や梓と木登りするのを見て泣きそうになったんですか?」

「そうだ。おまえはいつか俺を捨てて天羽や木ノ瀬と一緒になって終うんじゃないかと…俺は怖くなったんだ」


傷ついた手首を強く握る俺を真っ直ぐに見つめてなまえは瞬きをする。嫌だ、とか、痛い、とか言わないのか。なあ、拒んでもいいんだぞ。こんな惨めな奴なんて。


「……星月先生は、案外乙女なんですね」

「……は?」

「そんな少女漫画みたいなこと考えてるとは思いませんでした」

「少女漫画って…」


ひとが深刻に考え込んでいたことを少女漫画という一言で一蹴するなまえ。ぽかんとする俺の頬をつねり、こいつは真顔で紡ぐ。


「そんな心配しなくたって、私はいま星月先生の傍に居るじゃないですか」

「…でも不安なんだ。おまえには俺より未来があって、選択肢がある。そのなかで迷わない筈がない。いまおまえが傍に居ても、明日はどうかわからない。だから、」


怖くなってなまえを抱きしめる。細い肩を掴んで逃げないように、消えないように。滑稽なぐらい震える掌をなまえのちいさな体温が伝う。


「星月先生はいいにおいがしますね」

「…なんだ、いきなり」

「だからこうやって抱きしめられるの、好きですよ」

「………」

「この匂いをかぐと安心できるから。星月先生の傍に居ることを実感できるから」


なまえが目を閉じる気配がした。馬鹿みたいに不安がっていた心が少しずつ安らいでゆく。なまえの鼓動を布越しに感じて安心しているのだろうか。


「……なあ、なまえ。俺は汚い。汚い大人だ。いますぐおまえを連れ去って誰にも逢わせることなく閉じ込めて俺だけのものにしたい。俺以外に笑いかけるおまえを見ると気が狂いそうになる。おまえは俺のものなんだ。誰にも渡したくないんだ」

「……星月先生」

「…こんな……醜い俺でも、おまえは愛してくれるのか?薄汚れた独占欲でおまえを縛ろうとする馬鹿な大人を…」


いまだって、おまえを俺だけのものにしたくてたまらない。所有権を主張したい。こいつに近付く奴は消えて欲しい。なんて、大袈裟すぎるぐらいの感情論。


「…正直、そこまで想われて居たなんて意外です。星月先生はいつだって飄々としていて、つかみどころがないから。私にもそんな執着がないのかなって思ってました」

「そんなのは見かけ倒しだよ。俺はいつだって何かに縛られてもがいてる」

「…みたいですね」


くすりと笑ってなまえは俺の瞳を覗き込む。


「……でも、嬉しいって思った私は変ですか?」

「嬉しい…?」

「はい。その醜い独占欲も汚い感情もぜんぶ、私が星月先生にとって大切だから生まれたものだと自負しても良いんですか?」

「……なまえ…」


涙を零す俺の目尻を指先で撫でてなまえは囁く。


「大好きですよ、星月先生。今日も明日も明後日もずっと、先生の傍に居ます。だからもっと私を求めて下さい。いまみたいに本当のことを話して下さい。私は鈍感だから、本当のことは言われないとわからないんです」

「……本当の、こと」

「そうしたら私も、もっと先生の気持ちを大切に出来るから」


そう言って、今まで見たどんな笑顔よりも柔らかく笑ったなまえの唇に俺は長いキスをした。いまの本当は、言葉じゃうまく伝えられない気がしたから。
ちゅ、とリップ音をたてて唇を離す。間近にあるなまえの吸い込まれそうな双眸に俺が映っていた。


「……いまのは、言葉じゃないから伝わらないか?」

「………まあ、それなりには伝わりました」

「…そりゃ良かった」

「……あ、どうしよう」

「なんだ?どうした?」

「…いま、すっごくドキドキする」


その言葉で、俺はなまえの頬がほんの少し紅色に染まっているのに気付く。いつもポーカーフェイスななまえがそんな可愛らしい表情をしたことが嬉しくて、自然と笑みが零れる。


「…っはは、おまえ、可愛いなあ」

「……あまり見ないで下さい。照れます」

「いやだ。もっと見せろ」

「ちょ、星月せ…」


んせい、と続けようとした口をキスで塞ぐ。何度も何度もちいさなキスを交わして俺はなまえに告げる。


「ふたりきりの時は、琥太郎って呼びなさい」

「……またいきなり無茶ぶりを」

「言わないとキスするぞ」

「…………こ…たろ……さん、っ!」


名前を呼ばれただけで楽しくて嬉しくて幸せで泣きそうで、俺はなまえに深い口づけをする。温かい涙が零れるのを感じながら目を閉じて、いまを閉じ込める。
消えないで、行かないでと願うのはきっとこいつも同じなんだ。だから俺達は手を握りあう。重なる体温のかなしさを見ないふりして、本当のことを言おう。
おまえが好きで好きで好きすぎて、俺はもう気が狂って仕舞ったよ。
それでもいい。おまえがこんな俺を愛してくれるのなら、異常だって構わないさ。
だってそれも愛のかたちだろう?




(手を手に、目を見ていてよ)