#rendai | ナノ



だれにもあなたをふれさせない

ずいぶん錆び付いてしまったと思っていた。しかしハサミの手入れ方法などよく知らないし、百円で購入したものに手入れをして長く使おうというほどの思い入れはなく、切れなくなったとしてもそれはそれとして大して問題に思うこともないだろう。

しかしよく切れた。しゃきんと小気味いい音とともに、切り刻まれたものはわずかに宙を舞ったのち散らかった床に落ちて、もう屑にしか見えなかった。

「やっぱ高岡さん、そういう服似合いますよねえ」

伊勢ちゃんは大きな口でハンバーグを飲み込み、唐突に言う。

バイト終わり、落ち合うなり突然「腹減った」と言い出した伊勢ちゃんは、「帰ったらすぐ作るから」と言ってもきかず、「今すぐ食べないと死ぬほんと死ぬまじで今すぐ」とくりかえして道すがらの適当なファミレスへ勝手に入っていった。

ハンバーグを貪りながら「そりゃ高岡さんの作ったハンバーグのほうが美味いの知ってますけど、俺はとにかく今すぐたくさん食べたかったんですよ」と妙に言い訳めいたことをくりかえし、あっというまにハンバーグも海老フライも大盛りライスも単品ポテトも単品からあげも平らげてしまった。せっかちに平らげたせいか唇の端にはソースがこびりついていて、当然教えてあげたほうが親切なのだろうが、子どもじみた姿をまだしばらく見ていたいので黙ったままでいる。

「え、無視すか」
「あ、ごめんなんだっけ?」
「だからあ、その服。買ったときはまじかよって思いましたけどやっぱ似合いますよね」

伊勢ちゃんはなぜか悔しそうな顔をしている。数日前、伊勢ちゃんとの買い物の中で立ち寄った古着屋で見つけたシャツは妙に宗教的なモチーフがやたらに派手な色でしつこいほど丹念に描かれており、伊勢ちゃんに言わせれば「さすがにないって」「一周回っておしゃれとかの域超えてますよ」「ほかの柄物はまだわかるけどなんでこれなんですか」だそうだが、詰め寄られれば寄られるほどかえって楽しくなってきて結局買って帰った。それから数日経った今日、袋に入れたままだった服をようやく袋から引っ張り出すことになった。バイト終わりの伊勢ちゃんと落ち合ってデートをする、というイベントに、新しい服をおろすのはちょうどいいと思ったからだ。着ていたジャケットを脱ぎ、買ったばかりのシャツに腕を通すとすぐ違和感に襲われた。タグを切り忘れていたので、背中に固い質感があたったのだ。だから、ハサミを手にとった。

「高岡さん、やっぱ結局スタイルいいんすよねえ。じゃなきゃそんなトンチンカンな服似合わないですよ普通。こないだ校内の喫煙所で電話かなんかしてるとこたまたま見かけましたけど、ああいうときやっぱスタイルいいんだなーって思いますよね。普段あんまりまじまじと見ないから意識したこともないんですけど」

そのとき、頭の中にある光景が浮かんだ。校内、喫煙所、電話。それは伊勢ちゃんが目撃したというシーンとは別物だろうが、しかしまったくの別問題というわけではない。

「あ」
「え?」

思い出したのは、喫煙所で一人煙草を吸っていたところに突然声をかけてきた女の姿だった。その女は同級生で、なにかの授業で二度、三度顔をあわせたことがあるらしい。相手の話に確かにそうかもしれない、と思いながら、どの授業でどのような話をしたのかはまったく思い出せず、ついでに突然話しかけられる理由にも検討がつかず、ぼんやりと顔をあげるしかできなかった。

その女がふいに、伊勢くんって、と切り出したので、俺は煙草を消して耳を傾けることになった。

「え、どうしたんすか高岡さん。急に真顔になるの怖いんですけど」

その女はなにかのイベントの主催をやってるだかなんだったか、興味がなくて覚えていないのだけれど、とにかくなんらかの用事があって伊勢ちゃんに連絡をとりたいという。なんで伊勢ちゃんなの、と聞いたら、伊勢くんの話は友達から聞いていて一度ちゃんと話してみたい、というようなことを言って、なにからなにまで胡散臭くて仕方なかった。そうした思いが顔に出ていたのか、女はとにかくさあ、と早々に話を打ち切るようにして、ふいに鞄からメモ帳とペンを取り出しさらさらとなにか書き付けた。高岡くん、伊勢くんの連絡先知ってるでしょ? この番号に電話ほしいって伝えてほしいんだけど。女が差し出したメモには090からはじまる数字が連ねられていた。素直に受け取ると、女は授業があるからと早々に立ち去っていった。俺は消化しきれない感情を抱いたまま、メモをジャケットのポケットにつっこんだ。

「高岡さんってまじで何考えてるかわかんないですよね、俺でさえわかんないんだからほかの人からしたらまじでこえー人だと思われてると思いますよ」

自宅で新しいシャツに腕を通したあと、ふと見ると足元に一枚のメモが落ちていた。着替えの際、ジャケットを脱いだ拍子に、ポケットから零れ落ちたらしい。シャツについたままのタグを切るためにハサミを手に取り、しゃきん、しゃきんとその切れ味を確認した。メモはあっというまに紙くずに成り果てた。連ねられた数字はもう、認識できない。

「ね、聞いてます? 大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫。ごめんね」


伊勢ちゃんは、そのすべてを知らない。


「あーっ、寒!」

店を出てすぐ、頬を冷えた風に叩かれ伊勢ちゃんは凍えるように身を縮めた。食事をしているあいだに、空気はすっかり夜の湿気を含んだ独特の匂いに変わっていた。寒さに耐えるようにかみ締めた前歯がのぞく口元が、妙に幼くてかわいい。誰もいない暗い交差点で律儀に信号待ちをする姿が、風にあおられてめくれた前髪が、なにも知らない無垢な横顔が、かわいい。

「伊勢ちゃん」
「はい?」

声をかけたら素直に顔をあげてくれたので、唇の端にいまだついたままのソースを拭うのも、そのまま唇を奪うのも他愛のないことだった。ちら、と触れる程度のキスだったが、冷えた唇の質感は十分伝わってきた。

「……ほんとだ、冷たいね」
「そ、とで、こういうことすんなって言ってんでしょ!」

伊勢ちゃんは顔を背けながら肩にパンチを打ってくる。懸命に「怒っています」を表明しているのだろうが、なんにも痛くなければむしろかえって甘えて見える。伊勢ちゃんからすれば俺はいつでも勝手でどうしようもなくて、会話をしていたかと思えば突然意識を飛ばして黙り込むし、本当に困った人間なのだと思う。


でも伊勢ちゃんは、なにも知らない。



(夜のレストラン / 思い出す / 唇)




[ 1/30 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -