水曜日午後八時から、駅前の和民で。(3)
「……馬鹿に、してんの? 先輩のこと」
「まあ馬鹿に……馬鹿に、うんまあ、なんていうんですかね、こういう飲み会で楽しそうに悪ノリしてる人のこと、心の底ではあんまり信用できなくて」
「……なんで?」
「そういう場ではどこまでもついてって楽しむつもりでいますけど、たまにこうやって離れてみたり、一人になったりしないとわかんなくなっちゃうんです。俺って酒飲むために大学入ったのかな? とか思っちゃって」
「あー……分かる気がする」
「酒飲んでー、ふざけてー、記憶失くしてゲロ吐いてー……って、それ自体を否定するわけじゃないんですけど、でもそこに開き直るのは違うじゃないですか。学生なんだから騒がしくても許してもらえますよねみたいな集団麻痺とか」
「ああ……まあな、あるよな」
「酒、飲むの楽しいですけど、別にそれが目的じゃないっていうか……。ちゃんと生産的なこともしたいし……って言えばいいのかな、なんていうか、こういう意味のないことばっかりに時間かけるのもおかしいよなって思ってて」
学校でも居酒屋の座敷でも、多くの人に囲まれてふざけて笑う彼からこぼれた言葉は正確で神経質だった。彼はもしかしたら、俺が思っているよりずっと真面目で繊細なのかもしれない。
居酒屋の看板を照らすライトが彼の顔の上に細かな陰陽をつける。社交的でどこまでも人懐こい陽の顔と、悩みながらどっぷりとモラトリアムに浸かる陰の顔が浮かび上がっていた。
どんどん引き込まれそうになるから、距離を保つために赤く燃える煙草の先端ばかり見る。全面的に肯定したくなってしまうから、近づきすぎないような返答ばかり考える。
「……じゃあ飲み会なんて来なきゃいいじゃん」
「でもそれは仲間はずれみたいで寂しいじゃないですか」
こんなところは甘えん坊の子供みたいに。
いよいよにやけるのを抑えきれない口元と、詰まっていく胸の苦しさに、煙を吐くふりをして大げさに息を吐いて落ち着かせようとした。後で、それが当てつけるため息みたいに響いてしまったことに気がついた。
「……呆れちゃいました?」
そんなはずない、と否定しようとして、慌てた俺は息を吐き出したばかりの無防備な状態で彼を見た。
闇夜の中でアルコールを蓄えた頬の赤みと、俯きがちな表情とその角度の目元と、弱みをごまかすように不自然に笑った口元が、小さな照明で浮かび上がっていた。あ、かわいい。この人かわいい。
「すいません、俺、初めて喋った人にこんなことべらべら好き勝手言って……誰かに、聞いてほしかったのかもしれないです」
弱々しい目がそれでも確実に俺を貫いていた。彼の目の中にいる「誰か」が、俺、だった。彼の目には俺が、俺だけが映っていた。
立っているのに、コンクリートの上なのに、体中が溶けて沈んでいくような浮遊感があった。その後でもう一度コンクリートに打ち付けられたような衝撃に頭ぶん殴られた。
ああそうだ、だから「恋に落ちる」と表現するんだ。
「いや、分かる。分かるよ」
「……本当ですか?」
「いや俺も……そんなようなこと、ずっと考えてて。だからゼミのやつとも仲良くなかったんだし」
「……そうなんですね」
「俺で良ければ、こういう話いつでも聞くけど」
「ほんとですか?」
「っていうか……俺が、話したい。俺の話も聞いてほしいし、もっと話聞きたいし」
「はは、ありがとうございます」
あ、また笑った。今度は心底嬉しそうな、人懐っこい表情だった。ああもう戻れない。戻らない。
「……名前」
「え?」
「まだ聞いてなかったよね」
「ああ」
彼はとっくに火の消えていた煙草を携帯灰皿に入れ、改めてというように向き直って言った。
「伊勢隆義です、よろしくお願いします」
初めて正面から見た、長い前髪もさらりとした目元も鼻の先も唇のうすさもゆったりしたTシャツから覗く首元の白さも腰元も、知りたい。見たい。触りたい。欲しい。この人が欲しい。それはつまり。
好きになってしまった。前から予感はあったはずなのに、降りかかった結論にどうしてこんなにも驚いているのだろう。
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