いま夏に溺れる | ナノ



第一話


春から夏へ季節が移り変わるとき、空の輪郭が曖昧になる。濃淡や湿度という明確な要因でなく、本当になんとなくでしか表現できない。けれどプールから上がる時、確実に分かるのだ。夏が近づいてきている。

「やのー」

水泳を終わらせた後、俺はいつもぼんやりしてしまう。熱したプールサイドを早足で歩いている時耳に入った言葉が「矢野」であり、それが俺の苗字であることに気づくのには時間がかかった。慌てて振り返ると、プールとグラウンドを区切るフェンスの向こうに私服姿の榎本が立っていた。手を振っている。

「えっちゃん、どうしたの?」
「散歩してて、学校の前通りがかったら水泳部練習してるみたいだったから。矢野いるかなと思って」
「あ、ほんと。今終わったとこだよ。ちょっと待ってて、自転車あるから送ってくよ」
「はは、ありがと」
「暑いから日陰入ってて」
「うん」

榎本は首のゆったりしたTシャツに、膝までのパンツにビーチサンダルというラフないでたちだった。普段なら制服姿が当たり前なので少し違和感がある。土曜日に学校に入るのは、簡単に仕掛けられるいたずらみたいだ。

着替えを終えジャージ姿でグラウンドに向かうと、木陰に座りこむ榎本が見えた。近頃は日差しも厳しいのに、榎本の肌は相変わらず真っ白だ。榎本は俺の姿に気づいて立ち上がって笑った。その笑顔になぜだか少しひるみそうになったけれど、笑顔を返して声をかけた。

「お待たせ」
「ん、待ったあ」
「ごめんごめん、お詫びにアイス買ってあげるよ」
「ハーゲンダッツね」
「うそでしょ金ないって!」

結局、学校から一番近くのコンビニで、62円のソーダアイスを二本買った。

自転車のうしろに榎本を乗せて、コンクリートから立ち上る熱に追いかけられながらのろのろ走る。左手で主に舵をとり、右手で握ったアイスの棒を滑らせないように気を遣う。

「あっつー」
「今日ほんと暑いね」
「でも矢野はさっきまで水ん中いたじゃん」
「そーだよ。水泳部はこの時期楽しいよ」
「いいなあー、ほんっと羨ましー!」

会話はなんてことのないものなのに、榎本は大袈裟にリアクションをとって、そのまま腕を回して背中に抱きついてきた。

近頃榎本は、なにかにつけて身体や顔を寄せてくることが多い、気がする。けれど意識するのも、なんなのと尋ねるのも俺ばかりが自意識過剰な気がして、俺は陽炎がたちのぼる道の先を睨むしかない。

「えっ、ちゃんは、きょう、なにしてたの?」

思わず途切れた声をどうにか絞り出して「何気ない会話」を作りだす。俺たちはいつからこんな風になったんだろう。どこかが触れる度、呼吸が乱れてしまう。溶けかかったソーダアイスを慌てて口に突っ込んだ。くしゅりとした独特の食感に、反応するようにこめかみが痛んだ。

「んー、普通に朝起きてー、ゲームしてー、またちょっと寝てー……」
「はは、ぐうたら」

二輪のタイヤがゆっくりと、坂道を滑っていく。街路樹の影をくぐったり抜けたり繰り返す。タイヤが砂利を踏んで跳ねる度、榎本の腕に力が入って、じんわりと身体を締めつけられる。

「そう、暇だったから、矢野に会いにきちゃったの」

肩甲骨のあいだに挟まった榎本の言葉が、コンクリートから立ち上る熱気をまた少し暖める。背中に汗をかいてしまっているのがいやだ。榎本にとって不快ではないことを願ってばかりいる。夏が扉を開けて僕たちを待っている。榎本を乗せたまま、加速をつけて飛び込んでいく。





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