泣くひと
入り口のパネルで選んだ302号室でひとり、ぼんやりソファに座っていると影のようなものが視界を横切った。それは恐らく幻覚で、不安に押しつぶされそうな俺の目にしか映らない。
「佐野さん……」
奥のドアが開いてシャワーを終えた佐野さんが現れた。俺はベッドに腰かけた佐野さんの肩甲骨と背骨を見ているだけでいてもたってもいられなくなり、立ち上がりベッドに上がった。
俺の指先が佐野さんの肩をなぞった時、また、影のようなものが通り過ぎた気がした。しかし指先が確かに触れているせいで、佐野さんの裸のこと以外考える余裕がない。
「キ……ッ」
「ん?」
「キ……キスしていいですか」
「聞くのそれ」
「あ、いや……」
「ん。どーぞ」
佐野さんは頼りがいがあり面倒見がよく男気に溢れた人だが、顔のパーツはとても繊細な作りをしている。まじまじと見れば緊張すると分かっているのに、焼きつけたい一心で黙視した。
肩に触れた手が震えてしまう。大学に入った時からずっとずっと好きだったのだ。廊下で背中を見かけただけで、舞い上がるくらいに。
そんな佐野さんが今、俺の前で目を閉じ唇を差し出している。
「……しないの?」
「あ、いえ」
正直に言えば、まだ心の準備が出来ていなかった。キスもセックスも、スムーズな手順についてたびたび予習していたのに、今ひとつも思い出せない。しかし佐野さんが不安げに目を上げたので、急かされている気がして勢いまかせに唇を押し付けてしまった。すでに股間がパンパンに膨らんでいるほどには興奮しているのに、微かな理性の残る頭が懸命に稼働し、すぐ唇を離してしまった。
「……なに、谷口は嫌なの? 嫌だったらやめるけど」
「あ、いや、あの」
どう答えればいいのか分からず、俺は返事をしないままごまかすように肩をつかんで、勢いまかせにシーツに押し倒した。
今日の飲み会では、いつものように佐野さんの隣をキープし、「佐野さんすきです」と繰り返していた。「佐野さんすきです、何飲みますか?」「トマト好きなんですかかわいいですね、すきです」「佐野さんほんとにだいすきです」。そして周りの奴らは「わー出た出た」「谷口はガチだからなー」と笑う。俺が佐野さんに好きというのは今やお決まりのやりとりで、誰も本気にしていない。それはある意味最も安全だから構わなかった。
それなのになぜこんなことになっているのだろう。俺はいつもと同じように、無責任にすきと伝えて笑っていられれば幸せだったはずだ。
その後の細かな手順はよく覚えていない。終始、黒い影がちらついていて集中できないままにぎこちない前戯をすすめた。恐らく何もかもスマートとはかけ離れていながらどうにか挿入の段階にやってきた時、俺は緊張と興奮で汗だくになっていた。
「佐野さん」
「ん……」
「挿れても……」
「……」
「挿れ、ますね」
頭をかっくりと垂らし、コンドームの装着に集中しているふりをした。あまり語らない佐野さんの表情が気になっていたけれど、押し切ってしまわなければ機を逸するだろうと焦るどうしようもない俺は、ローションでぬらぬら光る狭い場所に、性器の先をあてがう。
ゆっくりと挿入しようとした瞬間、黒く深い、あの影に襲われ全身を蝕まれた。俺は腰を引いて佐野さんの身体から遠ざかる。
「……谷口?」
「やめましょう」
「え?」
「やっぱりやめましょう、おかしいです、こんなの」
飲み会で佐野さんの隣をキープし、お酌をしてサラダを取り分けて、合間にすきですと言い募っては酔っ払いに野次られて、佐野さんは「はいはい」と聞き逃し俺がえへへと笑う、そこまで普段通りだった。
途中で携帯が鳴り、佐野さんは店を出て行った。佐野さんが彼女と別れそうだという話を他の先輩から聞いた。
佐野さんがようやく戻ってきたのは一時間半後だった。ずいぶん遅い帰りだったが、他の人も酔いをさましに外へ出たりと自由に過ごしており、解散の空気も漂いはじめていた頃だったので多くの人は気にとめなかった。俺だけが何かあったのかと不安になり、店を出たあと暗闇に紛れた佐野さんの背中を捕まえ「大丈夫ですか?」と聞いた。
振り返った佐野さんはなぜだかめちゃくちゃかわいい顔をしていて、「行きたいとこあるから付き合って」と言った。ちょこちょこついていき、辿りついたのはラブホテルだった。
今日の出来事はそれですべて、すべてだ。
「佐野さん俺なんかに流されちゃだめです」
「え?」
「今日の長電話、たぶん彼女でしょ。どんな話をしたかまではわかんないですけど、たぶんケンカかなんかしたんですよね。むしゃくしゃしてるのかもしれないですけどこんなのだめです」
「……」
「俺は確かに佐野さんのことすきすき言ってますけど、っていうかすきですけど、それは別にセックスできればそれでいいみたいなことじゃないし、憂さ晴らしに付き合わされるのも……でもこんな状態になったら俺も変に打算的になっちゃって今しなかったら一生佐野さんとキスとかセックス出来ないかもって思ったらしたくなっちゃうし、でもほんとできればいいってわけじゃないし、あの」
視界を覆った影は俺の罪悪感が具現化したものだった。影を打ち消すためには、言葉を遣い口元から消化するしかない。裸で言い訳を並べ、でも目の前に同じように裸の佐野さんが寝ているから性器はなおもギンギンで説得力のかけらもないし、こんなに情けない姿を晒すのは後にも先にもないんだろうなと思った。
「谷口」
「は、はい」
佐野さんに名前を呼ばれるとき、いつも緊張する。佐野さんはいつも冷静で声がぶれることがないのだ。とりわけ俺の名前はなんだか発音しやすいらしく、さっぱりした質感で発してくれる。
「……たにぐちぃー……」
そんな佐野さんが今、はじめて聞くような甘い声で俺の名前を呼ぶ。裸で、ラブホテルのばかみたいにでかいベッドに、足を投げ出すようなセクシーな姿勢で寝転んで。
「俺、彼女と別れちゃった」
「あぁはい……そうみたいですね」
「知ってた?」
「他の先輩から聞きました」
「理由も知ってる? って、誰にも言ってねぇんだけどさ」
「なんですか?」
「お前のせい」
俺は何も答えられなかった。ちょこちょこ佐野さんの周りをうろついては軽率な愛を飛ばすことがよくないことだなんて、恋愛経験のない俺でもさすがに分かる。
「す、すいません、俺のせいで関係こじらせちゃって、そんなつもりなかったんです」
「そうじゃねぇよ」
「え?」
「なんか俺、お前のこと好きになっちゃったみたいで、彼女に別れてくださいって頭下げた」
何を言われているのか分からず、冷静に考えたいのになんだって今日に限って、佐野さんはこんなに可愛い顔をしているのか。
「お前にすきすき言われ過ぎて、なんかよく分かんないけど洗脳されちゃったっつーか、今まで自分は女の子しか好きじゃないんだって思ってたんだけど、生まれて初めて『この男に抱かれてみたいなー』って思っちゃったんだけど」
「……」
「って言ったって俺もホモなのかよくわかんねぇし、でもとりあえずセックスができたらきっとこれから先なんでもできるかもな、って思ってんだけど。どーする? これ。どうしよっか」
佐野さんはずるい。いつでも冷静に正確な決定打をうつのに、こんなときだけ俺を立たせようとする。この人はきっと、彼女と別れるときに俺のものになる決意をしたのだろう。考えたら泣けてきた。佐野さんは困ったように「泣くなよ」と笑って俺を抱きしめ、シーツに引き戻してくれた。
涙とともに熱くなったからだで佐野さんにのしかかり、今度はもう迷うこともなく、佐野さんの狭い部分に性器を挿入した。
「あ、ん、っあ!」
「は……佐野さん……っ!」
「あ、っあ、う!」
「あっ、さのさん、さのさん」
こじあけた肉壁は想像していたよりもずっと熱く狭く気持ち良くて、溺れているうちに部屋から影が消え去っていた。302号室には俺と佐野さんの二人しかいらず、お互いの感情的な吐息が部屋の温度を上げるだけで影も風も入り込めない。俺は正常位で腰を動かすが、あまりの気持ち良さにすぐ限界を迎えそうになるので、ごまかすためと気持ちを吐き出すために佐野さんの身体にもたれかかった。
「やばい……しあわせすぎてつらい」
「はぁ……っ、なに言ってんのおまえ」
「だってー……」
提灯のある古いタイプの居酒屋だった。のれんをくぐって真っ先に佐野さんを探し当然のように隣に座った。こんばんはとかお疲れ様ですとかきょうも可愛いですねとかきょうもすきですとか、あとは何を言ったのだろうかもうぼんやりとしか覚えていない。あの一連ですべてが変わってしまった。すべてだ。
「俺の『すき』なんか、誰も本気にしてないと思ってました」
「あれ、しちゃった。しちゃだめだった?」
「……だめじゃないですうれしいですしぬほど」
「しぬなよ」
「……しんでもいい」
佐野さんの髪は細いから、汗をかくと毛先がランダムに張り付いてそれがすごく艶っぽい。唇もいつもより血色がよくてえろい。思わず吸い付くと幸福感が溢れ出るようで、いてもたってもいられずまた腰を動かした。
「ん、んぅっ」
「うあー、もー、あーさのさぁん」
「あ、んもっ……! うるせぇよおまえ、んっ」
唇を離すと情けない声が漏れてしまった。佐野さんは呆れているが、奥の方を突くと喘ぎに変わる。暗い部屋でひとりで想像していた佐野さんより、現実の佐野さんが何倍もかわいいしえろいしかわいい。さすが佐野さんだ。
もう一度抱きしめ耳元に唇を寄せたとき、続く言葉はすんなりと零れた。
「すきです」
何度も繰り返していたはずの言葉なのに、客観性を持って耳に届いたとき生まれて初めて真意に辿りついた気がした。音もなく涙がこぼれ佐野さんの首元に流れていった。そして佐野さんはまた、「だから泣くなって」と笑う。
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