失くすもの | ナノ



07

「じゃー寝るぞ」
「はーい」

交代でシャワーを浴びた後、声をかけて電気を消した。ベッドに潜り込み、目を閉じて一日を反芻し溜息をついた。疲れていたが、同時に高揚もしていた。終わらせた仕事や雷雨の冷たさを順番に思い出していくとき、もっとも印象的に浮かんだのは中野の純粋さだ。

そのときまぶたの裏側の、この世の何よりも暗く湿った世界に、布団がこすれる音が響いた。次いでマットレスが軋む。

「……お前なにさらっと同じ布団入ろうとしてんだよ殺すぞ」
「いやあ、寝させてもらえないかなと思いまして」
「さっき布団敷いてやっただろ」
「でも床、寒くて……」

俺は元々愛想がいい方でない。その上中野からすれば直近の上司で年上で、恐れるべき要素は多分にあったはずだ。しかし中野は、俺の不快そうな目をものともしない。その上子供のような不服さえ述べるのだった。

「テメェわがままか!? ネカフェじゃ足伸ばして寝られないだろーと思って家連れてきてやってシャワーまで貸してやったのに不満か!?」
「いまどきのネカフェはウルトラフラットレスシートっていうのがあって、俺でも足伸ばせますよ。シャワーブースもありますし」

中野は俺に寄り沿うように寝そべりながら、平然とネットカフェの快適度を語る。消灯後の暗闇だろうと、真隣の中野の表情くらいたやすく読みとれる。中野はなぜか余裕綽々な笑みを浮かべていた。馬鹿にされているのかと思ってしまう。

「じゃあ帰れいますぐ帰れネカフェでもなんでも行けばかくそ死ね」
「でもネカフェには深瀬さんがいないじゃないですか」

中野はベッドにうつぶせ顔の下で腕を組み、その上に頬を置くと、自然に小首をかしげるような可愛らしい角度になる。アイドルじみたかわいい角度と甘えた台詞のコンビネーションに、背筋がぞっとした。

「お前なんなの!? いっつもそーやって女のふところ潜り込んでんのかもしんないけど俺には通用しねぇからな!?」
「いや女の子にはやらないですよ、深瀬さんが相手だからやってるだけで」
「いやだからなんなのまじで、オッサン相手に何やってんのお前ほんと」
「一緒に寝ましょうよ」

薄々感じていたことがある。しかし口にしてはいけないのではないかと思っていた。軽々しく話題に取り上げるのは失礼だ、と、さすがの俺でも自粛していた。しかし中野が小首をかしげながら一緒にと言ったとき、あるべき配慮をぶっ飛ばして思わず口にしてしまった。

「お前ゲイ?」
「……さー……どうですかね」
「ほんとに帰ってくださいお願いしますネカフェまでの道案内しますから」

俺は勢いよく身体を起こした。中野は寝がえりをうち、今度は仰向けになって不満げに俺を見上げている。

「アーティストたる人が偏見とかよくないと思いますよ」
「お前ちょっとバカにしてんだろ」
「してないですしてないです、でもそんなに拒否されると悲しいなぁと思って。深瀬さんにとっては気味が悪いのかもしれませんけど、雷雨の中放り出されちゃうほどのことなんだなって」

中野の口元から、眉のあたりから、表情が乾いていった。はっとした。先程の「どうですかね」が、つまり肯定であることはすぐに分かったはずだ。ならばどうして、生きにくい彼を労わる言葉を添えてあげられなかったのだろう。きっと彼はこういうカミングアウトのたび、偏見を持つ人々に「気味悪がられた」のだろう。

「いやちが……偏見はねぇけどさ」
「ほんとですか? よかった」

それなら俺は、最初の理解者になったっていいと思った。凝り固まった価値観を振り回して、純粋そのものの人を傷つけることはしたくない。

中野はふいに身体を起こした。そして、そんなことを考えていた真摯な俺に、あろうことか、あろうことか中野はキスをしたのだった。

俺は瞬時に突き飛ばした。中野は転げ落ちそうになったところをどうにか耐え、いつもの柔らかな顔で俺を見ていた。

「お、まっふざけんなよまじで!」
「あの、さっきから不安なんですけど」
「あぁ!?」
「ここ、壁厚いんですか? そんな大声出してて大丈夫ですか?」

ボロアパートの壁にかかった時計を見た。日付は変わっていた。言いかえしたかったが対抗できる正論が浮かばず、俺は再度布団にもぐった。

「あーもうなんでもいいから寝るなり出てくなり好きにしろ!」

そして次の一瞬。何が起こったのか分からなかった。身体に重みを感じた。驚いて布団から顔を出すと、中野が俺に覆いかぶさり布団ごと俺を抱きしめていた。

「……おま……!」
「声響きますよー」
「……!」

反射的に口をつぐんだ瞬間、もう一度キスされた。あ、やばいかも、とその時本気で思った。たぶんこれ、まじでやばいやつだ。

なぜなら、キスをした瞬間の中野の表情を見てしまったからだ。焦がれるような、苦しげな、泣く手前のような、複雑な表情をしていた。

だめだ、そんな顔をされたら俺の声が、言葉が、部下に怯えられる権威が。中野はひっそりと笑って、言った。


「偏見、ないんですよね?」


あ、俺って結構情深い人間なんですね。


自身の新たな性質を初めて知ると同時に、はじめて、がはじまってしまった。





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