5
「ごめん、もう大丈夫だから」
兄から離れると涙を拭った。そして精一杯の笑顔を浮かべた。
「あーあ、俺、男になりたかったな」
兄と歩きながら冗談交じりに言った。もし男だったらこんな思いしなくて済んだのに、そう思うと少し気が沈んだ。兄もそれを悟ったのか浮かない顔をしている。
慌てて冗談だよと笑うが兄の表情は変わらなった。代わりに何か考え込むように親指を噛んでいた。
暫くすると兄が急に立ち止まった。
「兄?」
立ち止まる兄に心配するように声をかける。返事はなかった。もう一度声を掛けると兄は何か閃いたかのように顔を上げた。その顔はとても輝いていた。
兄は駆け寄ってくるなり、名前の両肩を勢いよく掴んだ。
「え、何。どうしたの」
「男になればいいんだよ」
「は?」
「だから男として通えばいいんだよ」
「あの、意味がわかんないんだけど」
言ってることが全く理解出来ず、兄に説明を求めた。兄は気持ち悪い程の笑みを浮かべる。
「確か今度転入するだろ? その学校では男装して通えば良いんだ。そうすれば皆お前のこと男として見る」
「……」
どうだ、と自信満々に答える兄には呆れて何も言えなかった。呆気にとられる名前を余所に彼はその手があったと嬉しそうに笑ってる。
「あのなぁ、そんなことできる訳ないだろ」
溜め息を吐きながら否定すると彼は得意げに笑った。
「それが出来るんだよ。次の学校氷帝にするんだ。そこの理事長だったら俺、知り合いだし。スポーツ推薦があるから頭の悪いお前でも編入できる」
「だからって男としては無理だろ」
「大丈夫、理事長には俺が頼んでやる」
「そういう問題じゃない」
断固として受け入れない名前に兄は頬を膨らます。しかし何か思いついたのかニヤニヤと笑い出した。
「あ、因みに氷帝男子テニス部は全国クラスで強者揃いだから」
名前の耳がピクリと反応した。
兄は話を更に続けた。
「特に跡部っていう奴は多分お前より強い」
「……俺より、強い?」
その言葉に名前は兄を見た。兄が頷くと名前は愉快そうに、へぇと呟いた。
仮にも優勝者の自分より強いと言われたのだ。競争心の強い名前は当然興味を抱く。現に期待感で胸が震えていた。
その様子に兄はすかさず氷帝のパンフレットを取り出すと、あるページを名前に見せた。それは男子テニス部について書かれているところだった。
「全国へと導いた有能選手、跡部景吾か」
記事の大半は彼の事で占められていた。兄の言う通り、彼が凄腕なのは記事に書かれている経歴を見てすぐに分かった。
相当な実力者だなと思うと同時に、彼と一戦交えてみたいと身体が疼く。
「なぁ考えてもみろよ。女として氷帝に入学しても跡部と戦える機会なんて滅多に無いぞ。それに戦えることになったとしても、跡部が女相手に本気になると思うか?」
「……っ」
名前は押し黙った。
兄の言い分が的を射ていたからだ。
今日の事を思い返した。あの言葉、何度思いだしても悔しい。だがそれ以上に女だからといって本気にされないのはもっと悔しい。
男になれるものならなりたい、それを望んだのは少なからず自分だ。
名前は拳を握りしめると、力強く兄を見た。その目にはもう何の迷いも無かった。
「俺、男として通いたい」
はっきりとそう答えた。
←[2/2]