◎ 2-2
怖くて目が開けられない。
何が起こったのか分からないけど、これだけは分かる。ここは絶対に魔界じゃない。
感じるのは、鼻の痛くなるような植物のにおい。このにおいは前に学校で教わったはずだが、それが何だったのか思い出せない。何だ?何の授業で教わった?
目を閉じたままでも、ちらちらと灯りが揺れているのが分かる。たぶんロウソクか何か。
……なんだ。本当になんなんだ。
おれは今日もたくさん遊んでたくさん勉強するはずだったのに!
ここが地獄だか冥界だか知らねえが、大人になるまで残り130年しか無いのに、おれの邪魔する奴は許さねえぞ!
「……子供?」
「!!誰だ、お前!」
ぎゃああ誰かいた!男の声だ!!
いきなり聞こえた声は、魔界では聞いたことのないような音の集まりだった。
呻き声や鼻息の混ざらない、すうっと耳に届くような声。
きれいな声だ。
「ってちがあああう!!」
「何がだ」
「うるせえ!お前は何だ!ここどこだ!」
「…目は開けられないものなのか」
ああ!目を閉じたままなの忘れてた!
まだやっぱり怖いけど、このまま誰か知らない奴の前で目を閉じているのは危ない。
それにここがどこなのかもまだ分からない。
いくぞ!せーのでいくぞ!
「それはツノか」
「ぎゃああああ!」
ばかあああああ!
せーので行くって決めたのに、あろうことか相手は俺の頭をいきなり触りやがった。
びっくりして目を開けたもんだから、心の準備が台無しじゃねーかこの!
周りは狭い空間のようだったが、ロウソクしか光源が無くて薄暗い。おかげで明るさに目が眩むようなことは無かったが、むせ返るような植物や薬の匂いが、鼻をやられそうな程に濃い。
「尻尾もあるものなのか、見せろ」
「ぎゃあやめろ触んなー!って言うか人間じゃねえかお前!?」
「ああ。お前は使い魔で良いのか?」
「誰が使い魔だコラ、触んなって!」
目の前にいたのは、藁みたいな金色の長い髪の人間だった。
しかし目が怖い。あ、いや怖くはねえけど!光源が少ないってこともあるが、それにしても目に生気が感じられない。ジト目ってこういうのを言うのか。
……で。なんでこいつはさっきから人(悪魔だけど)の体をべたべた触ってんだあああ!!
「牛?いや黒ヤギの下半身…それにツノに尻尾か。まさに悪魔だな」
「触んなって!あ、やめ!このやろ!」
「!」
やめろって言ってんのに、ぶつぶつ言いながら人間はおれを触りまくる。
人間の手は滑らかだった。手袋のせいで体温は感じられないが、こんなに触りまくられたのは初めてで、全身に鳥肌が立つ程に気持ち悪い。もっと小さかった頃に、火ナメクジに背中を這われた時くらい気持ち悪い!!
だから爪をのばしてひっかいてやった。ざまみろ!
「その爪は戻るのか。どこまで伸ばせる」
「うるせえばか!こっち来んなお前だれなんだよ!」
いやいや、なんでさっきよりこっち来てんだよ!!
手ぇ見ろ、自分の手!けっこう深く傷つけて、血もダラダラ出てるだろうが!
ぽたぽたと血が木目の床に落ちて
……木目?床?
いや、その前に人間がいるって言うなら、ここは。
「…ここ、もしかして人間界か…?」
「俺がお前を呼んだ。おそらく。」
「おそらくってなんだ!?おれはまだ120歳だぞ!?」
「ひゃくにじゅう……」
「おい何だその目は」
そんなバカな。
人間界の魔術書や悪魔の書に名前が書かれるのは250歳になってからだぞ!?
まだ子供のおれを人間が呼ぶ方法なんて無いはずだ。
こいつはおれを呼んだと言うけれど、そんなわけがないじゃないか。
「俺は使い魔を試しに呼んでみただけだ。そうしたらお前が勝手に魔方陣から出て来た」
「魔方陣って、お前これ…」
床に白墨で書かれていた魔方陣は、たしか教科書で見たことがある。
人間にとっては一番簡単なもので、弱っちい虫や影の使い魔を呼ぶためのものだったはず。
なのに、鍵になる重要な部分がごっそり抜けて書き違いも多い。まず文字が間違っている。きっと理解もせずに本を見て書いたんだろう。
「全然違うじゃねえか。こんなんでよく儀式なんかやったな」
「……本で見た通りに書いたんだが」
「じゃあその本がぱちもんだったんだろ。人間界には中途半端なのも多いって聞くぞ」
「なるほど興味深いな。そちらにもこちらについての知識があるのか」
「…ってこっち来んなって!いい加減にしろよ人間!」
じりじりと近寄って来る人間が気持ち悪くて、腰から翼を広げる。
小さくて弱そうだとよくバカにされる翼だが、毎日練習して少しずつ飛べる時間も伸びて来た。こいつの手から逃げるくらいなら十分大丈夫だろう。
部屋の天井ギリギリまで飛び、バカにしてやろうと人間の方を見下ろした。
「すごい」
「は?」
「すごいな。そんな小さな翼で飛ぶのか。驚いた」
「す、すごくねえよこんなの」
「いや、人間から見れば素晴らしい。お前は上級悪魔なのか」
その目は薄暗い部屋の中でも分かるほどに、興味と感嘆で輝いていた。
…いやいやいや、おれが上級なわけがない。
悪魔として特別上等な能力を持つわけでもなく、地位を与えられているわけでもない。
しかも子供のおれはまだまだできることも少ない。そんなおれに、すごい?
…おれ、すごい?
「もっと見せてくれ、髪くらいならくれてやる。それとも血肉が良いのか」
髪も血肉も、生きた人間の物なら少なからず悪魔の糧になるものだ。特にこいつは中途半端なひどい魔方陣でも召喚をやってのけるような人間。(失敗してるけど)
そんな力を持った人間のものなら、子供のおれには十分な糧になる。
そんなものを、こいつは軽々とおれに差し出すと言う。
「バジル・ホーキンス。これがお前を呼んだ人間の名だ」
一瞬もおれから目を離さずに、人間、バジル・ホーキンスは手を伸ばした。
悪魔に名前まで差し出すか。…これはなめられているのか無知なだけなのか。
「お、おれクナツ」
「クナツか。来い、見せてくれ」
体温を感じない手は、ゆっくり降りて来たおれの手をそっと取った。
ひどく丁寧で慎重な手つきで、まるで自分が魔界の貴族か六大将にでもなった気分になる。
それほどに、目の前の人間はおれを丁重に扱った。
「なんなんだよお前…、に、人間のくせに」
その手が妙にくすぐったく感じて目をそらすと、壁の一枚の紙に気が付いた。
セピア色の紙に印刷された写真は、目の前のバジル・ホーキンスのもの。
『ホーキンス海賊団船長
“魔術師”バジル・ホーキンス』
今熱心におれを触る実物の目とは違って光を宿さない目が、紙の向こうからおれを見つめていた。
「出会いを常に愛し、恐れよ。そこに悪魔はいるのだから」
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