エルガストルムに来てちょっと経ったくらいの時のお話
「ねえ、ウォレス」
その名を呼ばれたのはもう、いつ以来だろうか。全てを鮮明に覚えているせいで懐かしさなんて微塵も感じないがそれでもそのかわりに、多少の違和感を抱いた。
ウォレス、ウォレス。
自分はどう足掻いても、もしもかき消そうとしても、ウォレスでありウォリックだということは覆らない。永遠に。
「ウォレス、またそんな顔してる。陰気くさいわ。だめよ」
そう聞こえて、誰ぞやに頬を撫でられる。しとりとして、暖かい。
これは、誰だろう。知人なら、思い出せないはずがなかった。しかしわからない。声は女性だが、誰とも似ていない。もしかしたら、今まで関わってきたすべての女の声を混ぜたようなものなのかもしれない。そんなふうにも思えた。
「どうしてそんな顔するのよ。さっきからずっと」
自分はそんなに、"そんな顔"をしているだろうか。笑っては、いるはずだ。少なくとも人の前に居るときは、陰鬱なカオなんてしない。
「いい加減にしてよ、薄幸そうだわ」
言い返すことはしなかった。口を開こうとも思わない。幸の基準は人それぞれにある。他人から見れば自分の人生は幸の薄い人生なのかもしれない。他人の基準に当てはめてみれば、めちゃくちゃな人生なのかもしれない。自分の生きざまを、自分以外の人を、物を、参考に仕上げたものさしで測ることがないから。それでも自分なりの人生にすとんと填まるところを探している。これで良かったと思えるところを、細い糸を微調整して他人との距離をつくる。現実になんて、いくら向き合ったとて答えは出ない。
もちろん腑に落ちないことだってあった。これからも、腐るほどあるはずだ。それもきっと、わだかまりを感じながらいなしていくのだろう。
「でも、幸せになりたそうな顔だね。わかるよ」
他人になど、理解できるものか。どう足掻いても、ぶつかっても、身を焼いても、所詮個々なのだ。共感されたことで何となろう。
しかも自分は、幸せだ。幸せだと、思いたい。大袈裟に悲観することはないが、大袈裟に味のしない幸を噛み締めるつもりもない。
「あんたなんかに、わかるかよ」
「そうかしら?わかってる"つもり"なんだけど。ウォレス、あなたこういうこと考えたことある?」
「こういうこと、って?あと俺はウォリック……」
「どっちだっていいわよ。短いからそう呼んでるだーけ。あのね、自分は、幸せになっていい人間だと思う?」
幸せになっていい。誰の基準で。他人が決めるなら簡単だ。俺はニコラスを許さないと言った。苦しんで死ね、と言った。それはすなわち不幸に生きろ、幸のない虚無の最期を迎えろということ。そう言った。そんな激情に任せて飛び出た言葉で、それを鵜呑みにするとしたら、ニコラスは幸せになんてなってはいけない。そういうことだろう。
「そうね、そういうこと。言いたいことは伝わってるみたい」
なら、自分は。
何もしなければ陰鬱な毎日を屋敷で過ごすだけ。見飽きた本を何度も眺め、空を飛ぶ鳥を何も思わず見上げ、陰で嘲る大人たちに消極的な反抗をし、それから。
ニコラスと出会わなければ昂る感情もなく、ただなんとなくで放火なんかをしていたかもしれない。
そして何より、ニコラスを縛った。どこへも行けなくしてやった。契約主になった。ひとりの黄昏種という名の人間を、所有した。自分はそのように捉えていずとも、一般から見れば言葉のまま、そうなのだろう。此処では、黄昏種は殆ど誰かに従属という形をとっているから。
何にせよどうあっても世間の平均が見る"幸せ"とはかけ離れたところにあるのだろうとは思う。
「へえ。なるほど。聞きたいところとは微妙にずれてるけど、わかったわ」
「わかるはず、ねーよ」
「はいはいうっさい。黙って聞け。ウォレスはね、幸せになってもいいのよ」
その言葉にはとんでもない毒が含まれていた。恐らくにこやかな表情で囁かれたそれを聞いた途端にぞわぞわと鳥肌が立ち、涙が溢れそうになる。つい、嫌だ、助けて、そんな言葉が口をついて出そうになる。喉はつまり、今までに感じたことがないくらいに苦しく、熱い。そんなはずは、ない。幸せになるなんて。あってはならない。
「あらー、拒否反応起きてるね」
「うるさい、もういいだろ。どっか行けよ」
「行かないよ」
鬱陶しい。余計なことをべらべらと重ねて、弄んで。顔が見えないことをいいことに、きっと笑っているに違いない。
「酷い言いぐさだこと。まあいいけどさあ」
いつも、きっと不安だった。それが浮き彫りにされた今、初めて味わう怖さが支配していた。幸せそうにしている自分を想像したくない。できない。どちらなのかは明確ではないけれど、とにかく困難なことには変わりない。心から笑っていることに、これは、どんな心情だろう。怖れ、否定し、狼狽した。あり得ないことだと強い衝撃が脳の中を刺激して、どうしようもない。
「ま、それをね、伝えたかったんだけれども。わかった?いや、わかりたくないか」
「お前、誰なんだよ」
ここまで来たら、正体を突き止めるしかなかった。誰でも良いと思っていたがここまで核心をつかれたことなど一度もない。何者なのか、知りたかった。
「教えない」
「ふざけるな」
「ふざけてないよ。もう一度言うけど、ウォレスは幸せになっていいの」
「うるさい!それはもういい!」
「ウォレスは忘れないから大丈夫ね。仕方ないから教えてあげよう。あたしはね…………」
ぼんやりした暗闇が、朝の陽に変わる。
大切なことを、聞き逃してしまった。元より教えるつもりはなかったようにも思える。
起き抜けのくせに心臓の辺りが痛い。変な寝方をしてしまっていただろうか。強ばっても、仕方ないかもしれない。
心をひどく苦しめたその言葉を、ニコラスが聞いたら、なんて言うだろう。
20160217
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