「っ、た」
 すれ違いざま、肩を擦った。雑踏の中、小さく漏れ出た声を、聞き逃さなかった。
 考え事に夢中になっていたせいで。たまに、というか、よくある。人が多いと、特に。顔を上げ、口を開いた瞬間に、ぱちんと何かが飛んだ。
「ごめんなさ……あ、くろ、ろ……? くろろ?」
 その顔を、久方ぶりに見た。紅い髪に、きつく、はっきりした目元。見覚えのあるものに、化粧が施されている。少しつかえるような口調も、記憶にあるものと、よく、似ていた。違うのは声質か。
「……ニクスか」
 あまりに、よくできすぎていやしないか。つい、ほんのついさっきまで、幼い頃のこいつが、目の前のこいつが、脳裏に浮かんでいたのだから。運命とはこういうことか。それともただの、ただの偶然と呼ぶか。指先が震える。しかしそれも、すぐに治まる。……らしくない。
「……ぶつかって、ごめんなさい」
 呟いて、頭を下げて、たったっと人をすり抜け逃げるように姿を消そうとするその手首を、反射的に掴んでいた。
「久しぶりじゃないか」
 焦って口をついた言葉。なんだこれ。この姿勢、口ぶり。なにかとこじつけて、人を攫う前みたいじゃないか。とっさのこととはいえ、さすがにこれは、急きすぎた。しかし、このまま逃げられても、今晩は、寝付きが良くないだろうから。結局、捕まえた。
 ぽかんとした顔。嫌がる様子が伺えず何よりだが、直ぐに表情は硬直した。
「おれ、ごめんなさい、したんだけど」
「それは俺も悪かった。つい、な。ニクスのことを考えていて。そしたらニクスとぶつかった」
 事実を、伝えただけだ。
「……くろろ、昔から、そういうとこある」
 諦めたのだろう。ため息をつきそうなかお。一転して、ぶすくれた表情をつくる。
「一回決めたら、曲げないね。……から、おれのことも、離さない」
 そうでしょう? と首を傾ける仕草で問いかけてくるそれは、いつ覚えたものなのだろう。そんな器用な真似、仕込んだのは、誰だ。
「そういうことだ」
「あんまり、時間、ないからね」
 腹を括ったのだろう。引き寄せてもいないのに、すうっと、慣れたふうに寄り添って、ぴたりと身体を密着させる。細い腕を腰にまわして、誘うように。
「どこがいい?」
 行き交う人の中のささやき。背徳感。嫌いじゃない。
 背が足りなくて見上げるその表情は、一転して艶やかだった。きっと、いつも、こういうことをしているのだろう。
「喫茶店でいいだろう」
 口角を上げるだけ。
「じゃあ、そうしよう」
 笑んで、腰にまわした腕を離す。まるで、そこに二人で行くには、この関係性を演出するのは似つかわしくない、とでも言うように。

「ひさしぶり、だ、ねえ? くろろ」
 遠慮なく呼ぶ名前。そうして、俺も、遠慮なく名を口にする。
「ひさしぶりだな、ニクス」
 出方を伺うなんてことをするつもりはない。ただ、俺が、声をかけた。それに乗ってきた。それだけの話だ。
「変わったな」
 雰囲気の話。昔はもっと、世間を知らない顔をしていた。
「そう、みえるよねえ。よくわかったね、おれ、って。でもね、見たかんじだけだよ、きっと」
 ふふ、と笑って、マグカップに口をつける。ホットココア。子供みたいだ。
 そう、こいつは、子供だった。昔。俺も子供だった頃。
 もう、何年経った? 10年どころの話ではない。そう考えれば、ひと目見ただけでわかる程に顔のつくりが変わらない目の前のこいつは、俺に見つけてほしかったのだろうか。
「くろろ、は、かっこいいね。オブシディアンだ」
 美味そうにココアを飲んで、ほろりと笑んで言う。
「おれ、いま、かっこよくない。ルベライトにくらい、なりたかった。輝いてない。間違った、かなあ」
 あの日のことを。到底、あの日に、嘘をついた口と同じとは思えない。弱気がほろほろ、聞いてもいないのに零れる。
 いま、何をしている? どうやって生活している? 趣味は何だ? 昔と変わらないのだろうか。
 まだ許せないでいるから、聞けないのだ。嘘をついて、姿を消した。あの時の俺は今より随分、鈍かったらしい。少し頭をひねればわかることだろう。それでも、眩んでいたらしい。
 返す言葉も、見つからない。
「ねえ、くろろ、おれ、間違えたのかもね」
 なんと言おう。
「戻ろうと、思ったら、戻れると、思う?」
 そんなことを言いながら、憂いの色はないのだから。結局、勝手をしておいて俺に委ねるつもりなのだ。
 なんと言えば、戻ってくる?
「……どうだろうな」
 ああ、戻ってこいと、簡単に言える筈がなくて。葛藤を重ね、幾夜、思いを馳せたか。
 それを、簡単に許してしまうことが、なんとなく嫌だった。意地だ、これは完全に。
 あれを、なかったことにするのとは違うけれど、その苦悩を、知らないで言うのだから。
 揺さぶられるとは、こういうことなのだろう。
「おれ、迷ってはないけど、明日は、見えてないんだ」
「そうか」
「くろろは素敵だね。なにもかも。……あのとき、嘘ついて、ごめんね。おれ、でも、くろろのこと、すきだ」
 ならば何故。
「ずっと、想ってた」
「……そうか」
 成す術なし。あれ程に苦悩し、今日のように、歩きながら昔の面影を追うくらいなのだから、こいつは俺の、弱さなのだろう。
 それでも、戻ってこいと言えない意地。憎たらしい。
「……今日が、さいご、かもね。もう、会えないかも」
 わかって言ってるのか、そうでないのか。人探しくらい、容易いものだ。逃げも隠れもしていない人間ひとり見つけられない訳がない。それでも今まで探さなかったのは、どこか化石のように、揺るがない、戻らない思い出の欠片としようとしている自分の所為で。
「そう言うな」
 平静を装って。
「なに、くろろ、おれと、また会ってくれるの? 今日みたいに、ぶつかって、手、掴んでくれるの?」
 途方もないことだ。すうっと身体の芯が冷える。つまり、望んでいないと、捉えていいだろうか。
「ああ。そんなことがあれば、な」
 けれどもし、それが望みなら、またいつか。

20180227


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