桜、綺麗やなってそう言われて窓の外へ目を向けた。卒業式を終えて解散式をするため一旦教室に集まった俺たちは、最後のこの空間を噛みしめるように、だけどまだはっきりとした実感も湧かないまま、担任の話を静かに聞いとった。いつもさわがしかったクラスの奴らも、今日は珍しく前を向いて話を聞いている。そんな中、俺の前の席に座る白石だけが体を少し反転させて小さな声で話しかけてきた。
 桜。今年は早咲きらしいってお天気お姉さんが言っていた。確かに去年の卒業式にはまだ七分咲きとかその程度で、こんなにも花びらが舞っていなかったような気もする。あの時の俺は卒業する先輩を見送りながら何を思っていたっけ。まだまだ先のことやって思うことすらしてへんかったかもしれん。式長いなあとか、多分それくらい。今年の在校生もきっとそんなこと考えてるんやろなあ。一年なん、あっという間なんやで、って言ってやりたいわ。
 それにしても、桜ふぶきで一面桃色だらけや。ほんまに綺麗。あー、せっかく卒業式で泣かへんかったのに、むっちゃ瞼熱い。今なら泣いても誰も何とも思わんやろうけど(ていうかすでにクラスの大半が泣いとる)ちょっと恥ずかしいような気もする。そういえば前にもこんなんあったわ。部活の合宿ん時やっけ。海行って、むっちゃでっかい太陽がほんまにきらきら綺麗に光って沈んでくん見て、うるっときた。ああ、確かあの時は財前に馬鹿にされた気するわ。先輩ほんま涙腺弱いっすね、って。こんなんで泣けるなんめでたい人っすわ、って。せやけど俺知ってんねんで。あの時、あの金色が見えへんくなるまでずっとお前が見つめとったこと。ほんまかわええやっちゃ、ってお前の頭に手が伸びそうになったんを俺は我慢しててん。

 ああ。卒業ってこういうことやねんな。

 ふいに何かを理解した気がする。学校を卒業、なんて言葉では軽いけれど、ほんまはもっとさみしくて。俺たちは結局、置いていくばかりで、時間を思い出にすることしかできひん。多分みんな、それを知っているから泣くんや。これからはほとんどの奴らが離れ離れになる。また明日、俺らがそう言って別れるんは、これが最後。
 体育館に入場して俺は真っ先に財前を見つけた。つんつんの黒髪なん珍しい髪型とちゃうけど、見慣れた俺にその姿見つけるんは容易い。式の間中、俺はずっと財前の頭だけ見とった。財前の頭は、一回だって上がらなかった。



 解散式も終わって在校生が作ってくれた花道を拍手を浴びながら通った。自分で言うのもあれやけど、俺は割と後輩に好かれとるから、写真撮ろうや、とかメアド教えてくださいっちゅう感じで囲まれて、ようやく輪を抜けた頃には白石もちょっと疲れた顔しとった。まあ白石は俺とは別の意味で囲まれてたからなあ。
 この後、オサムちゃんのとこ行ってテニス部で卒業パーティーやっちゅうのは前々から計画されとったことやった。テニスコートの方行こうや。小春らももう行ってるんちゃう?そう言った白石に、そうやな、って返してから、やっぱりちょお用事あるから先行っといて、って言うてテニスコートとは逆方向へと足を向けた。何となく。ただ何となく、行かなければならないようなそんな気がした。一歩一歩前へと進む足が向かったのは開いている筈もない部室。



 外から聞こえてくる声を耳で感じながら、俺は三年間過ごしてきたテニス部の部室にいた。ほんの数ヶ月訪れていなかっただけなのにやけに懐かしくて、俺の使っていたロッカーが今もまだあることに当たり前のことながら少し感動してしまった。使いにくい扉の近くのロッカーは誰も好んで使わへんかったけど、俺はこの位置が好きやった。財前のちょうど隣。部活が終わって着替えながら、今日はどこ寄って帰る?とかそんな話をするんが好きやった。ぜんざい奢ってくださいって言う財前に、またぜんざいかいって突っ込むあの時間が好きやった。しゃあないっすわってかわいないこと言うあいつの頭に右手を伸ばすその瞬間が好きやった。そうした時にほんの少しだけ口元を弛めてうれしそうに笑う財前が、好きやった。
 俺が他の奴らより財前に慕われとるんやろうなあってのは一緒に練習したり帰ったりする内に何となく分かるようになった。いつも無愛想な財前がふとした時にやわらかく笑うようになって、それは俺の前でだけなんやなあって思うようにもなった。ほんで気づいたら、それは恋人に向けるものと同じなんちゃうかなって思うようになっとった。半分くらいは、そうやったらいいなって気持ちもあったんかもしれんけど、そんな気がしてた。俺は財前のことが好きで、一緒におれる時間すべてが大切でしゃあなかってん。ペアとしてコートに立って財前の背中見ながらいっつも思っとった。ずっとこのままでおれたらええんやになあって。財前は知らんやろけど、多分俺の方がずっと二人でおれる時間を大切に思うてた。例えそれが甘い恋人同士のような時間ではないにしろ、俺はそう思うてたんや。


「ちゅうか部室、何で開いてんねん」

 誰に聞くわけでもなく何となく呟いてみた。視線を部室の隅に移せば新入生用のラケットが数本壁に立てかけてある。懐かしいな。あの赤いの俺のお古やん。まだ使ってんねんな。俺はもう一度視線を自分のロッカーへと戻した。そこには、さっきは気づかんかったけどヤングジャンプが二冊、奥の方に並べてあった。

「なんやねんこれ」

 誰が入れたんやろ。このロッカーの新しい持ち主やろか。にしてはヤンジャンしか入ってないってどういう……、

「あだっ」

 突然背中に衝撃がはしって慌てて振り向いた。そこには、今日一回もその顔を見せてくれへんかった財前の姿。相変わらずの無表情で久しぶりっすねと一言言うた財前にせやなあって返して右手を伸ばした。それはほんまに自然に伸ばされていて、財前は簡単に俺の手を払ったけれど、俺は少し寂しかったりもした。まあいつものことやったから、今さら驚きもせえへんけど。俺はそのままヤンジャン片手に会話を続けた。と言っても財前は何の返事もせんかったから俺が一方的にしゃべっとるだけなんやけどな。

「なあ、財前」
「……はい」
「俺な、自分とのダブルス、めっちゃ楽しみやったんやで。知っとった?」
「知るわけ、あらへんやんか」

 一瞬、今自分が何を言うてるんか分からんようになった。知っとった?なんてきっと残酷すぎる。俺はこんなこと言いたいわけとちゃうかったやろ。財前にこないに傷ついた顔させるつもりなん欠片もなかった筈やろ。せやのに、何やろ。やけに冷静に忍、足謙也の中の誰かが勝手に俺んこと操っとるみたいな、そんな感じ。
 準決勝のことはこれからの人生、それこそ墓場ん中まで誰にも言うつもりなかったんに。だってそうやろ。財前は俺とダブルスやりたかって俺も同じ気持ちでおって、せやけどあの時の俺の判断が間違ってたとも思えへんねんもん。勝ったもん勝ちやから。俺はみんなで決勝に臨みたかったから。せやから、俺やあかんって思うたんや。千歳に譲ったこと、俺は後悔してへん。そんなことをこれ以上に言い様がないわ。

「最後、やりたかったんやけどな」

 せやけど俺がこないなこと言うてしまうのは、何でなんやろな。言った分だけきっと財前を傷つけて、こんな言葉今さらフォローにも何にもならへんのに。時間は戻らへん。戻そうとも思わん。
 それでもたった一つ、伝えたいことはあんねん。なあ財前、俺はほんま楽しかってん。お前と過ごせた時間。お前はそのことに一回でも気づいてくれとった?

「財前」
「なん、すか」
「卒業おめでとうって、お前にまだ言われとらへんねんけど」

 卒業がどういうことなんか、分かったような気がして、だけどするりと俺の手の中をすり抜けていく。いつも通りを装って作った笑顔が財前にばれてしまわんか不安で、せやけど今の俺にはこれ以上のことはできひんと思う。
 何度となく言おうとしていた言葉は、財前の卒業おめでとうの言葉と一緒にここに置いていく。そう決めていた。それでいい。財前が望まないなら俺はそれでいい。お前が俺を引きとめないなら、俺は最後までお前の先輩でおり続けるから。

「卒業おめでとうございます、清々しますわ」

 そういつもの無表情で言った財前に、建前程度の礼をした。最後までかわいないやっちゃなそう言って背を向ける。足を踏み出す。長年慣れ親しんだ部室にさよならを告げる。きっと俺は高校に入っても何やかんやでこの場所に訪れることになると思う。せやけど、きっとそれは違う。これが終わり。俺らが過ごした三年間の終り。卒業やから。伝え足りんことはありすぎて、もっと一緒にいたくて、できることなら引きとめてほしい。笑って許してほしい。後悔よりも、また今度って言って、俺らのダブルスは永久不滅やねんでってそう言い合いたかった。
 財前、財前。自分、今どんな顔で俺のこと見送ってんねん。俺はもう、行ってしまうねんで。ほんまにそれでええねんな。なあ、それなら俺は全部全部ここに、置いて行くから。

 浅く呼吸した。決心して、ただ一つ、おおきにな。それだけもう一度伝えたくて、俺は振り向いた。

「うおっ」

 振り向いた瞬間、突進するみたいに、背中から思い切り腕を回されて、俺は一瞬何が起きたのか分からなくなった。そしてすぐに、これは財前やって気づく。

「ざいぜ、」
「俺も、楽しかったです。ほんまに楽しかったんです、あんたと、一緒にダブルスの練習やれて、テニスやれて、ほんま、楽しかったし、うれしかったし、せやから」
「もう、ええから」

 必死に言葉を紡ぐ財前の方を向こうと体をひねったら、財前は俺から顔そらすみたいに俯いた。微かに聞こえる鼻を啜るような音と小さく震える体に、財前が泣いているんやろうってことはすぐに分かった。

「財前」

 名前を呼んでそっとその頭に手を伸ばした。ワックスで固められた黒髪。そっと撫でてやれば、俺の胸の辺りで財前が揺れた。ほんま堪忍なって、そう言おうとして口を噤む。
 ――もしも今、俺がこのまま財前を抱きしめて好きやって伝えたら。ほんの一瞬、考えて、それから俺はもう一度財前の髪をくしゃりと撫でた。

「財前、……おおきに」

 つぶやいて、行き充てがなくだらりと投げ出されたままの左手を強く握った。右腕だけはあの日のまま、財前へと伸ばされている。
 なあ、財前。俺の二年間をおおきにな。

0906