あーいらいらする。
 俺の知る限りでは、謙也さんはお人好しを通り越していっそあきれるくらい馬鹿だ。俺の隣で寒い寒いとしきりに呟いている馬鹿。寒いなら俺にジャージの上を貸さなきゃよかったんじゃないかと思う。俺、べつに寒いなんて言ってないし。去年一年間でどれだけ謙也さんがお節介なのかを体感した俺は、いちいち拒否するのも面倒だと結論づけて、彼の親切はなるべく受けるようにしている。もらえるもんはもらっとけ、というのが俺の信条だ。謙也さんに対してのみ通用する信条だけれど。
 それにしても、まあ寒いだろうなと思う。今日は春にしてはけっこう気温が低いから、半袖はちょっと無理がある。俺はただジャージの上を洗濯していたから半袖でしかたなく参加していただけで、本格的に寒くなったら適当に着替えるつもりだった。それをどう受け止めたんだか、お節介が売りの謙也さんが俺に自分のジャージを押し付けてきたのが30分前。俺よりひと回り大きめのジャージにもいらつくし、寒いくせにかっこつけて半袖のままな謙也さんにもいらつく。他人のためならなんだってするのに、このひとはどうして自分のために行動できないんだろう。馬鹿だ、とまた思った。
 ぶるっと謙也さんが震えた。今のはけっこう大仰だった。ちらりと視線を向けると、謙也さんは自分の両腕を手で掴みながら、あーさむっ、と声に出しているところだった。だから、寒いならジャージを貸すな。アホだ。とは言え、一度貸してもらったものは部活が終わるまで返す気なんて無い。だって貸したのはアンタの勝手じゃないか。
 寒そうな謙也さんを見るに見かねてか、部長が「部室の俺のロッカーに、予備あるで」と声をかけている。あ、むかつく。謙也さんは即答で「いらんし!」と言っていた。安心した。ならええけど、と部長はそのまま行ってしまう。俺達はダブルスの練習で、コートが空いていないからこうして並んで観戦しているわけだけれど、動かない分寒さはひどいのかもしれない。一番ひどいのはのうのうと謙也さんのジャージを着ている俺だろうな。しばらく考えて、俺が持ってきていた着替えを彼に貸せばいいんじゃないのか、という意見に達した。でも、ここでさらに考えなければいけない。この今着ているジャージからもわかるように、俺と謙也さんの服のサイズはひと回りくらい違う。つまりだ、俺が持ってきている赤いパーカはきっと、ていうか間違いなく、小さい。
 やけにぴったりなパーカを着る謙也さんを想像したら、ちょっとうけた。

「……光」
「はい?」
「今、なんや笑っとったから」

 あーそれアンタのせいですわ、と言うと、はあ、とすっとぼけた顔をされた。謙也さんはこういう、はとが豆鉄砲を食らったような顔がよく似合う。普通にしていればけっこう整った顔なんだろうと思うけれど、彼が真面目な顔をしているのなんてなかなか見られないし、試合中は小春先輩いわく「ロックオンしたなるわあ」なくらいかっこいいらしいのだが、俺はこのひととダブルスを組んでいるから表情は見られない。まさか試合中にちょっと失礼、なんて言って後衛の謙也さんを見るために振り向くわけにもいかないし、謙也さーんなんて呼んで前衛の彼に振り返ってもらうわけにもいかない。

「アホくさ」
「お前、俺が先輩やって知っとる?」
「当たり前ですわあ、謙也さんは立派に先輩やないですか」

 同じ学年だったら、俺はアンタと一緒にいないだろうと思う。人間のタイプが違うから、今以上に謙也さんを疎ましく思うだろうし、もしかしたら心底嫌うかもしれない。もともと俺はお節介な人間が大嫌いだった。よかれと思ってしているのだろうが、俺からみたら滑稽でしかない。どうして頼みもしないことを勝手にするのかわからないし、だいたい自分がそれで困っていたら元も子もない。と、思うけれど、謙也さんに俺の常識を当てはめたって意味のないことだ。このひとは残念なくらい、他人に甘い。
 でも、隣で震えている先輩がいて。それを無視して先輩のジャージを着用する後輩は、おかしすぎるような気がする。

「あの」
「ん?」

 呼べばすぐに答える謙也さんは、俺の言葉を待っていたんだろうか。だったらいいのに、と自分勝手なことを考える。

「寒いっすか」
「あ、いや、寒ないで」
「さっきめっちゃ震えてはりましたけど」
「それは目の錯覚や」

 そういえば。謙也さんは意外と頑固だ。柔軟そうに見えて意地っ張りという意外性。べつに意外性とかいらないと思う。謙也さんは俺にジャージを貸した手前、寒いと認める気はないらしかった。さっきまであんだけ寒い寒い言ってたのに、いまさらすぎると考えないんだろうか。考えないんだろうな。
 あの赤いパーカ、たしか兄貴のお下がりだったから、すこし大きめのサイズだったはずだ。謙也さんでもぴったり、というあの面白い予想にはならないだろう。

「謙也さんて、赤、好きですか」
「赤?」
「赤」
「好きやでー」

 立ち上がって、部室に向かう。どこ行くん光ー、と謙也さんの声が聞こえてきた。さっさとパーカを持って戻ってくると、謙也さんはまたすっとぼけた、きょとん顔をみせた。

「寒いんでしょ」
「あー、まあ寒いっちゅうか、……や、寒ないって!」
「隣でぶるぶる震えられるとこっちも困るんすわ」

 赤いパーカを彼に押しつける。少し前とは逆の構図だ。普通なら、ここで俺は謙也さんに彼のジャージを返して、俺が自分のパーカを着るべきなのだと思う。でも、謙也さんは俺にジャージを貸した。部活終わるまで着ろって言って貸してくれた。だからずっと借りる。
 今の間は、このジャージは俺のものだ。

「んー、じゃあ遠慮なく借りるで」

 謙也さんは笑顔で言って、さっそくパーカの袖に腕を通した。俺よりも似合っているようで、ちょっと悔しい。どや、と見せびらかしてくる謙也さんに「まあまあ」と返して、俺はまたベンチに座る。謙也さんは座らずに、俺の横に立っていた。
 謙也さんの好きな色は、赤。さっきついでに訊いたことを頭の奥につっこむ。しばらくして、試合を終えた部長が謙也さんの着ているパーカに気づいて「あれ、そんなん持っとったっけ」と訊ねた。謙也さんの返答が気になって、無意識のうちに耳をすませてしまう。

「これなあ、借りたんや。なんやろ、光のにおいする」

 思わずベンチから落ちそうになった。

「……謙也さん」
「いやいやいやちゃうで? そういう変態的な意味やなくて、こう、他人の家のにおいっちゅうかな」

 言っていることはわからなくもない。でも、いきなりそんなことを言うなんて想像していなかっただけに動揺する。謙也さんのジャージは無臭に近かったから、余計に。

「あーめっちゃわかるで謙也! 他人の家のにおいって、なんか気になるねん」
「わかるか! せやろ、それ!」

 そして、部長と謙也さんは意気投合しはじめた。なんか気になるってなんやねん。わかってたまるか。


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