やめてくれと言えなかった。泣きたいのはきっと俺じゃなくて謙也さんだけど、結局俺はこのひとの前でしか泣けない。
 涙をぬぐうのはいつだって自分の指先だけだと思っていて、この冷たい指先だけだと思っていて、だれかの前で泣くなんて俺には耐えられないことだったはずなのに、俺の目元にそっと指を這わせてやさしく涙をすくいとるのは、謙也さんだった。ごめんな、ごめんな。謙也さんはそう言いながら俺の体をゆるく抱きしめる。抱きしめるというよりも、ただ、なにか失いたくないものを自分の手でホールドするような、そんな腕の回し方だった。
 一度見た。謙也さんは大切なものがたくさんあるから、自分を犠牲にする。今の俺はまぎれもなく謙也さんの大切なもので、その事実はうれしいけど、この抱きしめ方は俺限定じゃない。自分の両腕、両手を他人に回して、自分は泣きたくてもぜったいに泣かない。謙也さんが普通に泣いているところはよく見るけど、でも、今の俺みたいに悔しくて泣いている謙也さんは見たことがない。これからも俺は、彼が悔し涙をこぼすのを見ることはないのだろう。
 恥ずかしい。なんで俺泣いてんだろう。謙也さんの前で。このひとは俺がこんな態度をとったら慰めてくれるってわかってんのに。慰めるしかないって知ってんのに。今俺がすべきことは慰められることなんかじゃなくて、このひとを安心させてあげることなのに。ごめんなじゃないっすよ、謝りたいのは俺のほうです、アンタ差し置いて試合に出て、負けて、あんなに出たがってた試合を他人に譲ったアンタは泣けなくて、俺が泣いて、何になるって言うんだ。言いたいのに全部言えない。ひとつも言えない。何一つ、言えない。ただ馬鹿みたいにわあわあ泣くなんてぜったいにしたくなかったのに、謙也さんのごめんなって声が何度も何度も俺を不安にさせる。ここで言わなくたっていい、言ってほしくない、だってアンタは試合に出れなかったんじゃなくて、出なかったんだから。

 一緒にやりたかったんすけどね、なんて。言わなきゃよかった。アホかって返してくれると思ってた。もう終わったんやからしゃーないやろって。そしたら俺も、来年は勝ちますんで、って。それでよかったはずだ。未練がましく言う気なんてなくて、ほんとに全然なくて、ただ、謙也さんの顔見たら一緒にやりたかったなって思っただけ。最後だったのにって思っただけ。もうこのひとと俺は組めないんだって、公式戦で一緒にテニスを楽しめないんだって、いまさら気づいたから。謙也さんは俺のことをちゃんと信頼してくれて、こんなにひねくれてる俺でも投げ出さずに相手してくれて、今だって泣いてる俺を慰めてる。アンタはもう俺なんて放り出していいんだ。これからは俺みたいな生意気でどうしようもない後輩の面倒なんて見なくていい。構ってくれなくていいのに。
 なんでこんなにやさしいんだろうって、いつも思ってた。でも、たぶん、一生かかっても俺には理由なんて理解できないんだと思う。もう何度、彼は俺に謝ったんだろう。俺は何度、彼を責めたんだろう。一緒にやりたかった。最後の試合だったのに。一緒に戦いたかった。アンタと公式戦でやりたかった。最初で最後だったから。今まで散々迷惑かけてきたから、恩返しでもできたらなって、ちょっと思ってた。ちょっと。ほんとはただ謙也さんとダブルス組めただけでうれしかった。俺と真逆のアンタがすごくうらやましかった。最初むかつくしうざったいって思ってて、俺に構うなやって思ってて、だけど俺がどんだけ冷たくあしらっても笑顔で話しかけてくるから調子狂って、だんだんアンタの笑顔見るのが好きになって、アンタが俺に話しかけてくるのがうれしくなって、ダブルス組めるって決まったときはもう俺の人生終わってもいいんじゃないかってくらい幸せだった。まあ、ここで終わったら叶わないからぜったい最後までやり抜いてやるって誓った。こんな形で叶わなくなるなんて思ってなかった。
 薄々わかってたことだけど、謙也さんだって意地もあるだろうし最後だからさすがに譲ったりはしないだろうって思ってた。千歳先輩が退部したのを一番気にしていたのも謙也さんで、あいつ試合やりたいんやろな、とか、ほんま強いんにもったいない、とか、俺の代わりに出さしたろかな、とか。言ってた。言ってたけど、冗談っすよねって俺が訊いたら笑ったから。大丈夫だ、俺とのダブルスをちゃんとやってくれる、そう信じてた。べつに千歳先輩をうらむつもりはこれっぽっちもない。でも、俺とこのひとのダブルスをぶっ潰したのはむかつく。

「ごめんな、光」

 だから。悪いのはアンタじゃなくて俺なんだって、気づいて。アンタにしか甘えられない俺をけなしてくれたっていい。ほんとはアンタが一番泣きたいのに、それを知ってて俺は泣いて、だからアンタは泣けなくて。ごめんなさい。ごめんなさい、こんな俺でごめんなさい。謝っても謝っても足りない。それでも俺は謝れなくて、謙也さんがずっと俺の背中をさすってごめんなって呟くのを聞いて、ごめんってなんや俺とのダブルスなんやと思うてんねんアンタにとって俺はどうでもええんか、なんてくそ生意気なことしか言えない。背中からじんわりつたわる謙也さんの手のあたたかさに甘えて。

「ほんま、最低っすわ」

 最低なのは、俺のほうだ。謙也さんの手はゆっくりと俺の背中をさすっていて、たまにぽんぽんとあやすように軽くたたかれる。やめてくれって、ここで言えたら。謙也さん、アンタは俺の前で泣いてくれますか。


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